栄通記

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2008年 04月 12日

597) 市民ギャラリー 「第22回 北海道墨人展」 4月9日(水)~4月13日(日)

○ 第22回 北海道墨人展
   
 会場:札幌市民ギャラリー 1階第3展示室
     札幌市中央区南2東6
     電話(011)271-5471
 会期:2008年4月9日(水)~4月13日(日)
 時間:10:00~18:00(最終日16:00迄)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(4・10)

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 書の印象記を少し書いていきます。
 全体の印象としては「一字書」が中心ですが、黒字で迫る字あり、筆跡を残す字あり、力強い字あり、遊び字ありと多彩であった。一人一人の取り組みの違いが感じられて良かった。ただ残念なのは、表装のお粗末な作品が多すぎたことです。おそらく、表具屋仕上げでなく、ご自分でされているからだろうと思います。更に悪いのは、墨の勢いなのか、汚れなのかはっきりしない汚さが目立ったことです。書は黒一色の美学なので、もう少し配慮が必要ではないでしょうか。

 この会には樋口雅山房がいます。氏にはいろいろと芸術・書一般の雑談をする機会もあり、今展も作品に関する知見も窺うことができました。お話を参考にしながら、印象を何点か書いていきます。

 
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 ↑:高橋節男(共和)、「戒」・161×91。

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 ↑:中野隆司(札幌)、「悦」・90×160。

 筆跡が後追いできる2作品を載せてみました。

 上の作品、書き始めの飛沫を出さないで、2筆目の縦線が力強い。全ての書の力が、この縦線に集約されているような密度の濃さ、先に進み出ようとする力を感じる。「戒」、戈(ほこ・武器であると同時に祭器)を両手で持って、高く振りかざした様という意味だ。襲うというよりも、警戒して緊張して立っている姿だ。作品は仁王様のように、外に緊張がほとばしる直前という感じ。

 下の「悦」、「戒」と似て非なる作品だ。全体が人間の姿に見えて絵画的だ。筆跡はグラデーションを残すようで、「気」を内側に閉じ込めて完結している。おそらく筆の最後(終筆)に特徴を感じるからだろう。優しく完結しようとする作家の意思の現われと見た。「悦」、喜悦という言葉がある。心を開いて、何かと感応したエクスタシー状態をいうのであろう。「悦」としてのこの人は、どんな興奮状態だろう?



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 ↑:吉田敏子(札幌)、「寛 A」・144×91、「寛 B」・140×160。

 非常に優しい字だ。雅山房にその辺のことを伺うと、「かなのように手首で書いているからでしょう」とのこと。多くの「一字書」は腕で書いている。だから、大きく力が張っている。
 この作品は筆先の流れ、家(廟)を表すウ冠と下の字(人だろうか?)の関係が心地良い。書かれない余白との呼吸感も好ましい。
 心の広々とした状態、自由さや人の雅な様を「寛」に託して書いている。


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 ↑:樋口雅山房(札幌)、「鳥魚」・54×105。
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 ↑:樋口雅山房、「牛一歩」・54×105。

 共に絵画的で力強い。季節は春だ。以前この時期に、「春眠暁を覚えず」といった感じの「春」を見たことがある。それに比べて何と元気の良いことか!鳥になり、魚と対話し、山に見立てて超えようとしている。牛の如き確実な歩みをしよう、するのだと見た。

 上の作品、「書」として「絵」を描けばこうなるのだ、と言っているようだ。無論それは樋口雅山房の「書・理論」であって、他の書家には「書に非ず、道具としての筆・墨・紙であって、単なる絵である。」という批判があるだろう。もっともな意見である。門外漢の僕には、そういう議論の中から「書とは何か、芸術とは何か、伝統とは何か」に迫れれば良いと思っている。

 さて、「鳥魚」、「書としての絵」として楽しめば充分だろう。落款の位置に気をつけたい。

 「牛一歩」、面白い字だ。

 ①全体を一つの字として楽しむことが出来る。
 ②牛の字が「牛の顔」あるいは「人の立ち姿」に見える。雅山房・書の絵画性(造形性)が素直に出ている。

 ③全体を一つとして楽しめると言ったが、個々の字の魅力はばらばらだ。

 「牛」、絵あるいは切り絵のような後景・中景・前景と明確に区別されて目に入る。書は時間軸の芸術であるから、重なる字が立体的に見える時があるかもしれない。だが、この字は一本一本の字が独立して、絵のストロークの痕跡のようにして成立している。
 「一」、書のかなりの要素が「一」には含まれている。起筆、伸ばし、終筆が凝縮している。この字は始まりは独立していて、終筆は次の字に引き継がれるようにして成り立っている。「牛」と「歩」に挟まれて、あまり個性を発揮していない。中継ぎとしての字に見える。静かな「一」だ。
 「歩」、「牛」が完結した書からの逸脱を感じるならば、この字は最後の左下にはねる書き方が、あまりに力強く独立性が高いので、「歩」の字の全体のイメージを崩している。「歩」として破綻している。故に「牛」「一」「歩」が全てばらばらな存在原理で成り立っている。見た目の不統一とは違って、「書」への泥臭い拘りが全体を包んでいる。それは「書」あるいは「書法」への自信の現われでもあるかもしれない。

by sakaidoori | 2008-04-12 00:55 | 市民ギャラリー


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