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栄通記

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2008年 03月 18日

563)開拓記念館 「近世蝦夷地のすがた ー林家文書から見えるもの」 2月22日(金)~3月30日(日)

○ 北海道開拓記念館 第149回テーマ展 
    近世蝦夷地のすがた
     ー林家文書から見えるものー    

 会場:北海道開拓記念館
     札幌市厚別区厚別町小野幌53-2
     電話(011)898-0456
     ファクス(011)898-2657
 会期:2008年2月22日(金)~3月30日(日)
 休み:定休日月曜日
 時間:9:30~16:30
 料金:無料
 駐車場:冬期間中は無料で近くの関係者駐車場が利用できます。

 【関連事業】
○ 古文書講座「読んで楽しい林家文書の世界」
 日時:3月2日、9日、16日(日)(3会連続)  13:30~15:30
 
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 とても重要な展示物です。
 展示そのものは古文書が中心で面白味に欠けます。たとえ読めても、読めた満足感はあっても今展の意義まで思いが至るか疑問です。ガラス越しの古文書にはその意義が説明されていますが、深い関心のある人以外は全部を読みはしないし、たとえ読んでも企画者が何を言いたいかを理解するのは困難でしょう。
 敢えて私流に言えば、

 ー江戸後期の蝦夷地場所請負人の大量の帳簿を含めた資料を、その末裔の方(林家)から寄贈された(林家文書)。
 蝦夷地(アイヌモシリ)・・・そこはアイヌにとっては生活の全てだが、道南の松前直轄地をのぞいては、和人にとっては交易以外の何物でもない。交易は平等と言うよりも、和人とアイヌの力関係を背景にして、支配ー被支配という側面が強い。その具体的実体は『場所』の姿を描くことによって理解することができる。そこに林家文書の意義があるのだ。請負人とアイヌとの賃金関係、請負人と出稼ぎ和人との賃金関係、それらの帳簿を比較検討することによって差別の一側面が具体的に明らかになる可能性がある。また、請負人は当地(この場合はヨイチ)の行政の実質的出先機関のために、アイヌの人別帳(戸籍)も作っている。それらの資料は労働力や人口動態の推移の資料になるだろう。他にも各種資料がアイヌの生活実態の理解に役立つだろう。
 これほどの資料を一括して寄贈していただけるとは関係者にとって、実に嬉しいことだ。数字を伴っての江戸時代蝦夷地理解の根本資料になるだろう。だが、資料が膨大で管理のための基礎的整理しか出来ていない。資料名でワクワクするばかりで、中身までは調査は及んでいない。
 何はともあれ、こういうのが発見されたということを報告するのが今展の意義だ。


会場構成は以下の四つの柱からなっている。

 ①林家のすがた
 ②「場所」のすがた
 ③アイヌのすがた
 ④交流のすがた

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 ↑:頂いた資料の入っていた木箱。他に段ボール箱3個の宝箱であった2006年4月のことであった。全部で1140点、江戸時代が4分の1、残りが明治時代。

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 ↑:浜中貸付帳(1858年)。浜中(はまちゅう)とは出稼ぎ和人労働者。日用生活品一切を前借し、鰊等の漁獲高で清算される。その貸し借り台長。当然人別帳もある。

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 ↑:土人勘定差引帳(アイヌと運上屋の取引台帳、1858年。)
 この台帳と先の浜中台帳を比較すれば、それぞれの経済関係がより具体的にわかる。
 注意。この台帳に「土人」という言葉が使われている。安政3年に江戸幕府の命により、それまでの「蝦夷」に代わってこの言葉をアイヌの人達を呼ぶ公称語になった。現在ではご存知のように、この言葉は差別語である。だが、当時にあっては「その土地に住んでいる人」の意であり何等そういうニュアンスはなかった。おそらく、松前藩から幕府直轄地になるにあたり、「蝦夷」という名称に差別感を見た幕府関係者が呼び名を変えたものだと思う。今風に言えば「先住民」という感覚であったろう。だが、その後の明治政府のアイヌ感(同化政策)がこの言葉を侮蔑用語にしてしまったのだろう。

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 ↑:ヨイチ場所アイヌ人別帳。
 1825年から1853年まで、10冊くらい展示されている。他の資料はコピーが用意されていて閲覧可能だが、人権を配慮してコピーはない。

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 ↑:林家の故郷、象潟(きさかた)。
 奥の細道で芭蕉が最北の地として訪れた場所として有名である。

○ 象潟や 雨に西施(せいし)が ねぶの花

 (私訳:象潟に雨が降っている。その小雨にうたれてねむの花が西施という不遇の美女が憂いを湛えて眠っているように、そこに咲いている。
 西施=中国の春秋戦国時代の呉越の戦いの折、敗れた越は呉に美女・西施を献上した。呉王は彼女を溺愛し、国の傾く因をなし、結果越によって呉は滅びた。)

 元禄二年(1689年)陽暦8月1日に芭蕉は当地に着いた。当時、塩越(今の字名・象潟、平成の合併により秋田県にかほ市となる)は宮城の松島のように八十八潟、九十九島と呼ばれ、その美景を誇っていた。奥の細道は故人を偲ぶ旅の様相を示しているが、景勝地を尋ね、古今東西の知識を俳句に織り込む画題を求めた旅でもあった。
 それはともかく、この地は文化元年(1804年)の大地震により海底が2m以上も隆起し、大水田地帯に変貌した。林家はその頃に蝦夷地に進出したことになっている。この地震が何らかの影響があったと思われる。
 林家はアッケシ場所などの請負人を務めた後、ヨイチ場所を請負い、明治2年(1869年)に場所請負制が廃止されるまで、半世紀の長きにわたってヨイチを支配したと言ってもいいだろう。現在でも余市には「旧下ヨイチ運上屋」という林家ゆかりの建築物がある。よいち水族博物館にも資料がある。 林家資料は北大や道立図書館などにも分散して存在している。今、大量の貴重な資料が開拓記念館に寄贈された。道人、和人がどう読み解き披露するか、その日が楽しみである。

 たまたま三年前の春先に象潟を訪問したことがある。鳥海山を望む海沿いの町で田園風景が広がっていた。名刹・「蚶満寺」(かんまんじ)は芭蕉も訪れたが、田んぼに挟まれて光を浴びのんびりたたずんでいた。芭蕉の足跡の旅をしている女性グループも目にした。何か、句を詠い合っていた。

 まだ、海面を小島に付き合わせていた時代に芭蕉が詠った句。

○ 汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し

by sakaidoori | 2008-03-18 00:45 |


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