栄通記

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2007年 11月 25日

411)テンポラリー 「谷口顕一郎展」 終了・11月3日(火)~11月18日(日)

○ 谷口顕一郎展

 会場:テンポラリー スペース
     北16西5 北大斜め通り・西向き 隣はテーラー岩澤
     電話(011)737-5503
 会期:2007年11月3日(火)~11月18日(日)(月曜日は休み)
 時間:11:00~19:00

 妻が最終日前日に見に行った。それは酒井博ライブのついでであった。話を聞けば展示が様変わりしているというのだ。その姿を見たくて、見に行った。確かに展示空間は別物になっていた。以前の展示が帰郷の中でのリフレッシュ展とするならば、「これからの俺を見てくれ」、という最終展示であった。

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f0126829_1623666.jpg 旧東ベルリン地区の寂れて痛んだ路面の傷を等身大にトレースしたものだ。最初は薄く腰のない黄色いビニールにトレースし、それを厚い黄色のビニール版に写してくり抜く。そのくり抜いた部分が上半分で、ほぼ出来上がっている。谷口君は製作経過が鑑賞者に分かるように、切り抜く経過を見せている。左の写真がその拡大図で、切り易い様に電ドルで丸い穴を開け、それから線に沿って切っていくのだ。
 下半分はやや色を替え、ビニール版に写しただけのものである。
 最終的には切り抜いた作品を元の場所にはめ込んで、儀式は終わる。それらを切って兆版に付けたりして、立体として作品は完成することになる。

 この展示を見ることによって、僕等は彼の作業を追体験することが出来たわけだ。クライマックスの一齣を目にしたわけだ。何らかの理由で痛んだ路面を「凹み」という谷口・フィルター(形)で再生されたのだ。それは美しくも壮大である。人間や自然の営み、時空の変化を搾り取ったとも云える。単なる形が芸術の力で蘇生したとも云える。

 僕はこの作品の前で「版(画)」、あるいは「フロッタージュ」のことを考えた。技法的にも思想的にも近縁関係にあると思う。
 岡部昌生氏のフロッタージュとの関係は刺激的である。僕は彼の若き時代の活動は全然知らない。時折目にする近美の作品と二年前のコンチネンタル・ギャラリーでの個展が類推の原点である。

 「岡部昌生シンクロ+シティ2005」、コンチネンタル・ギャラリー。
 個展会場は作品そのものよりも、光や展示の工夫で見るものを圧倒させるというものであった。美的空間演出。
 壁にはフロッタージュ作品が並び、沖縄のある施設の館長のサインがあった。そのサインは沖縄という近代日本の負の遺産を担わされた「場と人」の象徴であろう。だが、なんとも安易過ぎる。フロッタージュという無名性に社会的地位による保証を与えているようなものだ。優れた文化活動ではあるが、創作活動ではない。
 狭い秘密めいた部屋には、膨大なフロッタージュ作品のハァイルがあった。彼は作品そのものよりも、過去の彼自身のエネルギーの総量で何を云いたいのだろう?自慢したいのだろうか?
 僕はそこにフロッタージュという技法のマンネリを思った。原点は風化し消え入りそうな人の過去の営為の外化、個人の闘うエネルギーの漂着点であったはずだ。ドロドロしたパワーが別の何かに置き換えられて、結果としての様式美しかさらけ出していないのだ。一原有徳氏のように、自身の版の様式を否定して、それでも版にこだわるという姿勢が欠如しているのだ。

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 谷口君は高い美的感覚と同時に、怜悧な遊び心を気質として持っている人と思う。その彼が歴史という血肉踊る生理的な現象に近づこうとしている。岡部氏はそこから出発して技法の硬直性によりマンネリに陥った。谷口「凹み」にはその危険性がないのだろうか?人の歴史や歴史性を揶揄するようなブラック・ユーモア、それは谷口君にとっても危険な悪性腫瘍になるかもしれない。今展は立派な直球勝負の個展だった。最終作品には「谷口トリック・スター」が隠されているのであろう。

 走って、近づいて、反転して逃げるフットワーク・・・。(11・18)



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by sakaidoori | 2007-11-25 11:30 | テンポラリー | Trackback | Comments(0)
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