栄通記

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2007年 09月 28日

326) 市民ギャラリー 「北の墨人選抜展」・書 終了・9月19日(水)~9月23日(日)

○ 第8回 北の墨人選抜展

 会場:札幌市民ギャラリー 2階
     南2東6
     電話(011)271-5471
 会期:2007年9月19日(水)~9月23日(日)
 時間:10:00~18:00(最終日16:00まで)

 書の楽しみ。
 書の鑑賞者を見ていると、多くの人が字を腕でなぞっている。何の字だか分からなくても、タイトルに導かれて作品と反復作業をしている。時には、初発の筆の置き具合に体ごと動かす場合がある。全体を流れるように宙に書く場合もある。書き順を通して、作家と身体的に感情移入をしているのだ。「書き順」、余りに文化に張り付いた芸術表現だ。作品の良し悪しは、他の視覚・平面表現と同様に一瞬にして判断される。だが、ひとたび気に入って作品の中に入る時は、作品に埋め込められた時間軸、描き順という時間に対決している作家の全身性が見る者を襲ってくる。一瞬に閉じ込められた時間の蓄積だ。
 その点では、絵は作業上の時間性は当然だが、時間よりも空間、二次平面の三次元化が見る者を襲ってくる。下地処理などの描き順は大事なことではあるが、書の絶対性という意味は持たない。
 デザインにいたっては描き順という問題性すら限りなく薄くなっていく。デザインとして書を描いたらどうなるのだろう。「一(イチ)」という字は書にとっては左から右に伸ばすのが絶対だ。しかも、起筆、伸ばし、終筆と「字」をたんに書く以上の「芸」としての「技と心」を育んできた。まさに、書は字であるが字を超えた芸術行為である。デザインはそういう約束事を無視する。「一」などはどう描こうと自由だし、単なるボッコでしかなくなっても構いはしない。文化の重みなど否定や揶揄して、軽く飛び跳ねることを身上としている。いつでも、どこでも、だれでもがアートとして参加できるのだ。アートという言葉も不思議な響きだ。アート=芸術なのだが芸術という言葉が伝統を引きずって重たく高尚な印象を与える。アート、なんて軽い響きだろう。

 「書」、その素晴らしさを薀蓄を込めて語っても仕方が無い。当今の何でもありの美術・文化表現。なんでも有りでは成り立たない、「書」芸術。だが、がちがちの伝統と安易な大衆化では「書」が泣いてしまう。過去の何かを捨てて、「書」で無い何かを足す以外に現代以後には意味をなさないだろう。


 「墨人会」、あまたある書の団体でも特異な歴史を持つと聞く。不勉強なのと、個別の作品を語る能力と根性をいまだ持ち合わせていない。幸いにも事務所を引き受けている樋口雅山房と親しく書の話を伺える関係である。書は彼を中心にして考えていきたい。写真掲載の許可も頂いた。暫時、個別の書家の字を文章家していこう。今回は写真だけということでお許しを。

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 ↑:樋口雅山房(札幌)。「花」、100×180cm。
 他の方と一線を画して、非常に分かり易い。大仰でない力強い土塊を感じます。氏の作品に共有な、躍動する造形美を併せ持っていると思います。

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 ↑:左側、渋谷北像(旭川)。「康」、142×88cm。
 他の意気盛んな書よりも、なぜだかこういう優しい字のほうが好ましく見れます。
 右側、太田俊勝(札幌)。「超」、140×180cm。

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 ↑:左側、久保哲哉(札幌)。「深」、140×180cm。
 右側、石田光子(札幌)。「悦」、140×180cm。
 入って直ぐの壁の展示作品。強い印象を与えます。似たような作風で、同じ書家かと思いました。

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 ↑:ネーム・プレイトは雅山坊さんが全て書いています。細い体がくねくねと遊んでいるように見えます。この書体が氏の普段着です。

by sakaidoori | 2007-09-28 14:36 | 市民ギャラリー | Trackback | Comments(0)
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