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栄通記

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2007年 09月 09日

317)  短歌 菱川善夫選「物のある歌」-10・9月9日

 短歌 菱川善夫選「物のある歌」
 (北海道新聞2007年9月9日朝刊、日曜文芸・P29より)

・父はかすかなかすかな遠い叫びの火 消ゆるときうっと息をはきたり(冒頭歌)
・だれも見ておらぬときのみ木は歩き父死ぬる月夜の窓にも来ていし
・秋の墓あかるくなりぬ機関銃の口もてさみしさみしと言えば

 渡辺松男
 「<空き部屋>」(2007年、ながらみ書房)。1955年群馬県生まれ。同県太田市在住。

 私が父の7回忌に帰省しようという時に、ある歌人の父の臨終の歌を菱川さんは紹介した。父を敬愛した歌群だ。臨終の息をひきとる瞬間、幻視として「木」がその時に見送り、「かなしかなし」と作家が言えば、墓が赤くなって応えてくれた。美しく、情愛のこもった歌だ。

 古里に同窓の友が居る。彼はその時に「オイオイ」と泣き叫んだと私に語ったことがある。母を日本人、父を朝鮮人として生まれ、炭住のはずれのひなびた丘の麓で養豚業を営んでいた。彼の父は戦後直ぐに韓国に帰り、かの地で再出発の人生を送ろうとしたが、余りにも祖国の貧しき姿に帰国を断念し、日本に戻ってきた。彼によると朝から夜まで働き、それ以外の姿は知らないという。「炭住のはずれのひなびた丘の麓」と言ったが、当時は「アリラン峠」と呼ばれていた。蔑視用語である。(ついでに炭住はハーモニカ長屋と部外者に呼ばれていたようだ。当然、蔑視用語だ。二階建ての八軒長屋がハーモニカのように見えるのだろう。中学時代に担任の教師から聞かされたが、その人以外は聞いたことが無い。教育者とは不思議なものだ。知る必要の無い事柄を炭住を語る卑しい響きと同時に聞かされた。)日本人の何倍も働かなければ食べていけなかったのだろう。彼は相当に成績の良い学生だったが、大学には行かずに、彼の父のような働き三昧の人生を送っている。臨終の時に大声で泣いたという話は、彼等の境遇を少しは知っているので胸に迫る思いで聞いた。

 友の話は止めよう。私は父の下を離れたくて、22歳の2月に札幌に来た。中学の時激しい反抗期を過ごした。30分の下校時に、将来父との関係をどうしようかと毎日毎日考えていた。「私は父に育てられた。私は将来、父の面倒をみなければいけないのか?」何度も何度も考えた。「父の面倒をみたくない、関わりたくない、だがみないわけにはいかない。どうしたらいいのだろう?」ある日ふと気が付いた。「私は父に育てられた。同様に将来、私は子供を育てるだろう。私は子供に老後の世話を期待しない、同様に私は父の世話をしない」なんとも勝手な理屈をつけて、心が晴れ晴れしたことを覚えている。父の側に居たらお互いが駄目になる。出来るだけ遠くに離れよう。一年間、失業保険で気ままに暮らし、機会を見つけて北海道に来た。父の臨終の時、一月以上札幌を離れた。収入は激減したが、最後くらい面倒をみようと決めた。壮絶な最後だった。木が見送るーそんなロマンなどなかった。だが、強い肉親の死は常に纏わり付いて今も離れない。故郷の9月、父との9月だった。芦屋の海の青さ、秋晴れの空の青さ、青い9月だった。他には何も無い。絵に親しむようになったのはそれからだ。

by sakaidoori | 2007-09-09 16:12 | ◎ 短歌・詩・文芸


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