短歌 菱川善夫選「物のある歌」
(北海道新聞2007年9月2日朝刊、日曜文芸・P29より)
○ わが子へのことば愁意にふるふときコスモスの茎たふるるを見つ(冒頭歌)
○ わが庭の草にしづめる露の数とひと生(よ)にし見む死の数といづれ
○ すすきの穂さわだせつつ歩みくる妻と子とふたりいつかわが遺族
大辻 隆弘
「兄国(えくに)」(2007年、短歌新聞社)。1960年三重県松坂市生まれ。同市在住。
折登さんの絵画を見た後に、こういう短歌に触れると、いっそうしんみりしてしまう。
植物によりそうように家族を詠う。「愁意」は人を殺すの意とのこと。子供への叱責に、子と同化してコスモスが倒れる姿を作家は見てしまった。朝に生まれては消える草の露に、人の生死とその数に思いを致す。秋のすすきに囲まれて、幸せそうに歩む妻子の姿に必ず訪れる死を見ている。哀しい姿だ。生死を見つめているから哀しいのではない。見つめる自己自身を客観化し、厳しく対峙しつつも、歌作することで「生」や「死」すらもてあそびかねない姿が見えるから哀しい。その甘さは「わが遺族」という言葉に集約されている。死後も作家との濃密な関係が保障されているようだ。「子」は何があっても子供であるかもしれない。だが、年々成長する子供にとって、父親が「我が子」と公言するする姿に心理的抑圧を感じる時があるのだ。「妻」との一生の関係など、どうなるかは解らない。離縁するかもしれない。殺し殺される関係になるかもしれない。
作家は家族に最後の信頼を寄せているのだろう。