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栄通記

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2007年 02月 02日

36) 油彩画家・小林麻美さんのこと

 突然に一個人、それも若い女性画家を紹介します。

 「栄通記」の全体の挨拶をまだしていませんが、目的の一つに作家アトリエ訪問記を考えています。伺いたい人は沢山いますが、まだ僕のほうに余裕と準備が整っていません。小林さんは旧小学校廃校を利用したあけぼの学舎を借りてアトリエとして利用しています。ご存知の方もいるかと思いますが、そこの所有者である札幌市からこの春までに全員退去の伝達がもたらされました。実質的退去命令です。その辺の事情を含めて小林アトリエ訪問をしたいと思っています。普段、僕が小林作品をどんな感じで観ているのかという感想を簡単に書いて、小林さんに対する挨拶文にしたいと思いま
す。

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 小林さんは恵まれた作家だと思う。

 2004年 札幌市「20人の試み展(写真:上)」
 2005年 「絵画の場合展」
  同    「第4回 具象の新世紀展(写真:中)」
 2006年 「第5回 具象の新世紀展(写真:下)」

 札幌では注目されている企画・グループ展に参加出品している。独自の目だった個展歴もなく、初招待参加が次から次への参加に繋がっている。彼女の作品の魅力なのだろうが、当時の僕には「こういう作風に関係者は注目しているのだろうな」と思うばかりだ。彼女は若い、旧来に無い何かを感じているのだろう。それよりも僕にとっては彼女の力の入った大作を定期的に見れて嬉しい。記憶に鮮明な二度の出会いがある。

36) 油彩画家・小林麻美さんのこと_f0126829_20174737.jpg 2003年2月、教育大卒業制作展が初見だった。色調、色合いは今と同じで、上半身は無く、スカートを履いた少女が太目の素足で枯葉の上を歩いているものだった。少女の視線から描かれていているから、顔は無く下向きで歩む進行方向に観者の目線が行くものだったと記憶している。卒業展でもあり、門立ちへの不安と顔の無さが文学趣味的偏向を感じた。一方で強い意志の人自信の人、頑固さも感じた。たとえ文学的であってもすぐに作風を変えないだろうと思った。
36) 油彩画家・小林麻美さんのこと_f0126829_20184542.jpg
 最近の大作、「第5回 具象の新世紀展」出品の「kalaidoscope」は実際深まってはいても極端な変化は無い。人を描いても顔の辺りはは実力に不相応な不鮮明表現。。それが現在の表現方法だと応えるかもしれないが、果たしてそうか。表現したいことと、体から出てくる食い違いがあるかもしれない。画中の物と物との距離感と装飾性は不思議な空間を演じ始めている。この近美の「具象画展」でようやく彼女の描きたい全貌を現し始めたといえるだろう。この展示会の図録に彼女はこう述べている。「・・。装飾的で映像的、その狭間を行き来するような絵画を求めて製作中」色の配置と工夫で映像世界にも見まごう視覚的異次元空間を造作しようとしているのだろう。しかし彼女の異様に発散する絵を知っている目はこれだけではないような気がする。時に絵から強い主張を発散する場合がある。彼女自身の生理的頑固さが露骨に発散する絵がある。ここにも表現したいことと出てくる物のギャップを感じる。   
 
 二つ目は本当の出会いであった。ある個展会場で作家との談話中に僕は名前を名乗った。その時居合わせた小林さんは何と僕のことを知っていて言葉をかけてくれたのである。おそらく、彼女も出品した花川でのグループ展芳名帳の記載を覚えていたのであろう。僕は不覚にも「小林」という名前と作品の一致ができなくて、話が進まなかった。人の記憶とは不思議なものだ。15分後に一切が線になって思い出した。それ以来、意外な場所で会って会釈をする関係である。だから作品鑑賞のできるのを楽しみにしている。

 小林作品に対する僕のテーマは次のことである。映像的と呼ぶ異次元空間の視覚体験はどう進むのか。そういう意図的表現はどこまで無意識に表現せざるをえないものと整合していくのか。小林さんの描く人の「顔」はどうなっていくのか。画中人物と絵はどういう関係になっていくのだろう。

 (写真は「札幌の美術 2004 20人の試み展」「第4回 具象の新世紀展」「第5回 具象の新世紀展」の各図録より借用)

by sakaidoori | 2007-02-02 11:20 | ◎ 個人記


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