栄通記

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2013年 09月 29日

2231)「北村哲朗彫刻展 -大地の構図-」 エッセ 9月24日(火)~9月29日(日)

      
   
北村哲朗彫刻展 

   -大地の構図
          




 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2013年9月24日(火)~9月29日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーーーーー(9.28)


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 (以下、敬称は省略させていただきます。)



 写真を見てもご覧のように、トーテンポールとか、仏像(マリヤ像?)のような作品が厳かに立ちすくんでいるだけだ。
 
 札幌で、木の力感や魅力を、大きく直裁に伝える作品展も珍しい。
 作家は大滝村(現伊達市)をアトリエにしての制作だ。小さい頃に当地で生活していたという。身の回りにあった木のボッコやカケラをストーブの前でいろいろと遊んだ少年かもしれない。その少年が大きくなって、大きく遊んでいるようなものだ。

 少年の頃の遊びは、ただ木と戯れることが主だったろう。もっと上手く作れたらとか、作品を眺めては一人満足した夢心地にもなったろう。もっとも、ノミだとかの道具を使ったかどうか? 
 もちろん今も当時の心は残っているはずだ。が、年を経ると、遊ばせてくれる環境なり空間が、単なる場ではなくなる。拡張された自分の世界であり、自分を包みながらも越えていく別次元の世界になる。自己表現を生む場に変質する。

 今展、そういう環境に対して、「自画像」であり、「包み込む女神像」であり、「一体化した守護霊」として個々の作品が立っていた。




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   ↑:「陽炎」・材 黄蘗(キハダ)。


 できることなら、10mもある倒木をそのまま陽炎にしたかったろう。そして記念碑としてその近辺、人と出会えそうな場所に立つ、朽ちるまで立ち続ける。
 そんな作品を持ち運ぶことは無理だ。そんな思いを胸にしまいながらの作品として見た。

 ただ、今作の陽炎はは一つではない。無数にある陽炎の断片のようなものだ。いくつかの陽炎が立ちのぼる、まるで人々が生きているようにして。
 一人の凛々しい姿ではないところが、一本の巨木の金字塔作品とは違うのだろう。





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   ↑:「懐」。楢(ナラ)。


 母子像。仏様、観音様でも、マリア様でも構わない。間違いなく「祈り」であり、大地への「賛歌」であり、「感謝」だろう。
 だが、大仰に宗教的でないのがいい。「これはあくまでも、作家・北村哲朗の儀式です。見る人よ、そんなにかしこまらずに、母体彫刻として楽しんで下さい」、そんな作家の等身大の人間性がにじみ出ている作品だ。


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 下腹部のふっくら感がいい。体のラインと木の組成をダブらせて、生命力を持たせようとしている。
 北村哲朗は、木の内部の筋に狙いを付け、そこを赤裸々にえぐり出し、木の力の根源を表現する作家だ。ビッキのように、表面のノミの跡に何とも言えないセクシーさを残し、全体の量魂と良き対比をなしている彫刻作品もある。
 北村哲朗は、木の生きた痕跡をいつまでも残すことに重点があるようだ。表面も彫り師の痕跡を残すよりも、生きていた頃の枝や瘤のある姿ををどこかに残し、「まだまだ木として生きているぞ」と言いたげな取り組みだ。



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 顔の部分、どこかぎこちない。他の力強さに比べると、ちょっとアンバランス。
 未完成なのか?そうだとしても未完成を楽しんでいるみたい。形を決めかねているが、作家自身は眺めているだけで満たされているのだろう。






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   ↑:「貌」・栗。


 ご本人は自画像と語っていた。
 僕は、作品をひっくり返すと、二本足のある人型に見えた。「人、あるいは自己」として見た。
 もちろん、今作品は上部の穴の開いた共鳴部分に重要な意味があるのだろう。何かの受容体であり、発信体。当然周りは森の中だ。




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   ↑:「森のもの」・栗。



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 こうして作品展として個々を見るのもいいが、住居の前だとか、隣接地域の境界域だとか、そんな自然の中で立ちすくんでいる姿として見たいものだ。

 そういう場としての札幌は可能か?残念ながら、あまり意味をなさないかもしれない。ここは都会だ。中央に比べれば弱いとは言っても、マンパワーの立ち込む場だ。今や自然とありのままで対話する場ではないだろう。
 こうして、作品として忘れていたことを思い出させてくれることに満足するのみだ。

by sakaidoori | 2013-09-29 11:31 | エッセ


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