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栄通記

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2012年 12月 05日

1902)「置田貴代美 写真展」 ミヤシタ 終了11月14日(水)~12月2日(日)

  

置田貴代美 写真展

    phase -回帰、次の未来へ-     


 会場:ギャラリー ミヤシタ
      中央区南5条西20丁目1-38 
      (南北の中小路の、東側にある民家)  
      電話(011)562-6977

 会期:2012年11月14日(水)~12月2日(日)
 休み:月曜日(休廊日)
 時間:12:00~19:00 
     (最終日は ~17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー(11.18)


1902)「置田貴代美 写真展」 ミヤシタ 終了11月14日(水)~12月2日(日)_f0126829_1134137.jpg
     ↑:①


1902)「置田貴代美 写真展」 ミヤシタ 終了11月14日(水)~12月2日(日)_f0126829_1134272.jpg



1902)「置田貴代美 写真展」 ミヤシタ 終了11月14日(水)~12月2日(日)_f0126829_11343568.jpg
               ↑:(DM作品より。①の会場風景も一番左側。)


 (今回は2枚の会場風景と、今展用のDM作品のみの写真掲載です。
 以下、敬称は省略させて頂きます。)


 全て、作家の故郷、道北風景写真。会場の説明文には、--高校時代に見ていた故郷・猿払の風景写真--そんな風な説明書きがあった。

 何の変哲もない写真ばかりだ。遠くに海が見え、水平線があり、近くには雑草。原野という海浜風景のみだ。

 川の流れもある。「何にも無さそうな風景だけど、見る人が見れば、感じる人が感じれば、そこには立派な『風景』がありますよ」という、メッセージを読み取れるかもしれない。僕にはそう見えないが。
 同様に、アイヌ地名考風景写真のような、「まさしく其処だ!」という、定点風景への同化とも見たくなる。
 あるいは、何にもないのが道北の本当の姿だから、それを正直に撮って、その場の空気感や臨場感という存在を表現している、という見方もできよう。
 そんな風に難しく考えなくても、故郷を懐かしみ、かつて過ごした風景への思い、ということかもしれない。殺風景なのは他者の視点・価値観、彼女には意味のない言葉かもしれない。


 僕には風景の前で仁王立ちしている作家が見えるばかりだ。
 撮影者は単に目の前に顔を向け、正面を見て、風景を撮るということで、自分を撮っているだけだ。選ばれた風景があるわけではない。風景すら撮ってはいない姿だ。素晴らしいとか、何かがあるとか、何かの描写としての風景には見えない。かつて高校時代に見ていた風景、いや、そこにいた自分を再確認する行為としての風景展に見えた。

 確かにここには、置田貴代美にとっての時の隔たりがあり、いろんな思いが募るだろう。故郷なのだから。過去と今とを重ね合わせてもいよう。だが、撮影者としての置田貴代美はただただ、シャッターを押すだけだ。押す行為によって自分がそこに立っている、それを確認するだけだ。「過去、現在、未来」の鏡としての故郷風景、生身の置田貴代美と、撮影者としての置田貴代美を猿払原野は生みもした。

 
 「私はここに立つ、見る」ただそれだけの写真展。その姿勢に驚いてしまった。
 「風景すら撮ってはいない」と言ったが、撮影者は結果として自然の相貌を赤裸々にえぐっている。殺風景なまでの置田貴代美・風景にも魅入ってしまった。個人的体験も甦ってもきた。もやった水辺で、草の揺れるざわめきが恐くて、足が進まなくなったことがある。あの胸の体の震えは何なのか?普段は見せない生きた風景だったのだろう。確かに恐怖なのだが・・あの苦い風景体験と今展が重なってしまった。

 しっかりした風景写真ばかりだが、目の前の撮影風景は飛んでしまって、心の中の風景との語らいに陥ってしまう。しかし、強く水平線を見るように「風景写真」を眺めては、再び自分の風景と見つめ合ってしまう。


 

by sakaidoori | 2012-12-05 16:57 | ミヤシタ


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