栄通記

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2012年 04月 19日

1711)「『まぼろしの作品 ・・・』 露口啓二 坂東史樹 鈴木涼子」cai02 4月13日(土)~4月28日(土)

   
○ 「まぼろしの作品
       ーUnconfirmed Pieces / Mirage of Art」 

      露口啓二・坂東史樹・鈴木涼子
    
  
         
 会場:CAI02 raum1
      中央区大通西5丁目 昭和ビル・B2 
      (地下鉄大通駅1番出口。
      ※注意⇒地下鉄に行く階段を下りてはいけません。
            昭和ビルの地下2階です。)
     電話(011)802-6438

 会期:2012年4月13日(土)~4月28日(土)
 休み:日曜・祝日  
 時間:13:00~23:00

 ゲスト・キュレーター:穂積利明(北海道近代美術館主任学芸員、美術批評)

 主催:CAI現代美術研究所
 協力:RAM(浅野総二)

※ 関連イベント ⇒ 初日 19:30~22:00
             アーティスト・トーク&オープニング・レセプション
              (トーク出演者 露口啓二×鈴木涼子 司会・穂積利明 

           
ーーーーーーーーーーーーーーー(4.16)

 (とりあえず、会場風景だけの掲載です。ピンポイントで紹介したいのですが、今の段階はこれだけです。)


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     ↑:右側の風景写真群、露口啓二・「オホーツク/シモキタ」
     ↑:左側の一枚の大きな写真 坂東史樹、「真昼の星々 ー樽前小学校体育館での記憶ー」・ピンホールカメラによる模型写真 ミクストメディア 2011年 100×141㎝。


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     ↑:左側の絵画と人形 鈴木涼子、「私は」・2011年 インスタレーション。


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 今展は純粋に企画展として楽しみたい。今展の場合は、第4の作家としての選定者・穂積利明氏の意志・主張がメインということだ。参加作品は選定者の手のひらの道具であり、踊り手だ。作品は良い踊りをしたかどうか?作品を良く踊らすことができたかどうか?

 今展の企画の特徴は言葉だ。「まぼろし」という言葉だ。
 「まぼろしの作品」というタイトルだが、今展の作品はコピーでも、状況資料でもなく、作品そのもんだ。だから、「まぼろしの作品」ではない。しかも、全ての作品はこの数年の間のものだから、「数十年前の作品が眠りから覚めて甦った」ものではない。消滅したと思った作品が「まぼろし」の様に甦ったものでもない。

 選定者は「まぼろし」という文学的言葉で我々に注意を投げかける。注意であって、作品に意識を集中させるものであって、始まりから「虚」と裏腹な関係で今展は成り立っている。
 さて、何を「まぼろし」と呼んでいるのだろう。
 氏はいう、「鑑賞機会が失われた」ことだと。この言葉はおかしい。現にここに「実在の作品」として展示されているのだから。
 それはともかくとして、選定者の説明を聞きながら感想を書いていこう。
 


 露口啓二氏の「オホーツク/シモキタ」の連作の場合
 写真はタイトルの地を撮った風景だ。隠れたテーマとして「到来」があった。「到来」を前提として、場の風景なのだ。写真は楽しむとか懐古調とは無関係だ。「普通の場所」だ。「象徴的知性」と「今此処を見るという意志」、両者の結びつきにより、写真の実写性記録性という力により、「普通の場所」を別の次元で再構築しようとしている。イメージの喚起だ。
 だが、昨年の東北大震災の結果、氏は初期の撮影は不可能と判断したみたいだ。隠れたテーマの「到来」が、実際の津波の「到来」で、象徴性なり架空性が吹っ飛んでしまった。もしかしたら、ここに写された風景は本当に「まぼろし」のような、今はみることのできない「風景」になっているかもしれない。
 この場合、穂積氏の「まぼろし」は、我々に「震災という事実をまぼろしにするな」という主張か?知の操作による間接技のような方法だ。ストレートな表現主義の時代ではないのだろう、今は。だから、こういう形での「メメントリ」も大事なのかもしれない。



 坂東史樹のピンホール写真の場合
 この作品は昨年の樽前アートで見た。苫小牧市樽前という地方ではあるが、実際に展示されたわけだから何ら「まぼろし」性はない。札幌人には見る機会が小さかったから、サービスとしての再展示だ。
 この作品は樽前の小学校を前提にしたもので、展示もその学校を利用した。だから、作品は時場との関係性で成り立っている。だから、何ら樽前性のないCAI02の地下に置いた時、何らかの「まぼろし」性が喚起されるかどうかを問うているかもしれない。
 僕は、場所性に一々「まぼろし」と言っていたら、作品の意味がないと思っている。作品には必ず「時、場、空間」という限定性が付きまとうが、それを越えた存在が作品なのだから。

 むしろ、坂東写真の場合は、「坂東作品の持つ強烈なまぼろい性」を浮き彫りにさせることが目的ではなかろうか。強烈な磁場と時空を持つ坂東・ワールド。しかし、強烈になればなるほど「まぼろし」になっていく坂東・ワールド。
 しかし、この写真、余りに「樽前小学校」に拘りすぎて、「坂東まぼろし」も空回りして見えた。あまりに知的な操作や技巧、それは大事なことなのだが、どこかわざとらしくて「まぼろし」が見えなかった。




 鈴木涼子インスタレーションの場合
 新500m美術館に出品予定での制作だったが、理由は分からないが取り止めたとのことだ。それを穂積氏は「封印」と語っている。その美術館展覧会は最近のことなのに、今こうして出品する気になったのだから、「封印」と呼ぶには大げさだ。「躊躇(ちゅうちょ)」し、再び出す気になったのだろう。

 それはともかくとして、この後ろ向きの子供の人形には参った。「おい、どうした?」と呼びたくなる。呼べども返事はない。すると、足でサッカーのボールをけるように、この子の頭をけりたくなってしまう。自虐的な子供(人形)に近づけば、こちらは攻撃的になってしまった。子供の位置もよくない。「どうぞ蹴って下さい」という仕草だ。
 鈴木涼子女史は、自虐的な作品を昔は制作していた。今回は先祖返りをしたみたいだ。ポップでキュートなウソンコ写真ばっかり作っていたから、生理丸出しの作品を作りたくなったのかな?だが、本人が自虐的になるのは構わないが、だれかを道連れにしようとしている。「私は・・」ではなく、「私を一人にしないで、殴っても蹴ってもいいから」
 僕は人形ではあるが、その頭を蹴る「まぼろし」を見てしまった。快感と後ろめたさ。


 三者三葉の「まぼろし」、知の強い「まぼろし」、言葉の多い「まぼろし」であった。


 

by sakaidoori | 2012-04-19 23:32 | CAI02(昭和ビル)


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