栄通記

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2009年 12月 16日

1129) ②開拓記念館 「クラーク博士の教え子 内田瀞(きよし)」 11月28日(土)~2月28日(火)


 (①の続き。)

 この農場勤務の41歳(明治31・1898年)から54歳(明治44・1911年)まで、神奈川県逗子に別荘ができた年までの15年程が、氏の後半生の充実した仕事時代でしょう。
 農場の「農場管理」職は61歳に辞職し、功績が認められて、70才までも「顧問」として働きました。「松平農場の顔、旭川地方の名士」は不動のまま他界されたのでしょう。ですが、別荘完成後は健康のために、その湘南地方で過ごす事が多くなります、現地は彼の部下が氏の意志に沿って運営されたようです。大正時代は農場運営最優先の人ではなかったのでしょう。いろんな意味で、「名士」として悠々自適にすごされたゆです。

 松平農場・・・貸し下げの時は530万坪という膨大な広さだ。
 本展では指摘されていないが、この農場敷地と内田氏の道庁勤務時代の仕事とは密接な関係があります。
 というのは、氏は北海道大規模入植者達のために、土地の調査、選定、測量等の道庁での中心人物だったのです。その役職が「殖民地選定・区画測設事業」という役所的な専門用語です。だから、農場の「現場最高責任者」として迎えられたのです。今で言う、「天下り」です。
 実際、明治32年の成功検査の時に彼の経歴、人脈が生かされた。成功検査とは、貸し付け地が無事開墾されたと認定されたならば、その地を無償で払い下げできるのです。それを無事「書類審査」だけで通過させることに成功したのです。もし現地調査されていたならば、とても開墾完了とはならなかったでしょう。
 審査は無事通過した。後は、氏の運営能力が問われるだけです。そして、道内で多発する小作争議も無く、開発投資額も無事回収し、道議も経験する名士として生涯を終えることができたのです。

 さて、松平農場。
 自分が関わった土地で、実際の開墾の管理をするのですから、情熱もひとしおだったでしょう。そこに、クリスチャンとしての義務感や使命感があったかもしれません。土佐ボーイの心意気の発揮です。果たして、冷静な日記に、それらを示す痕跡があるのでしょうか。

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     ↑:「松平農場の開墾風景」(三線道路)・明治30年秋 撮影。

 農場申請は明治27年末、開設は明治28年、翌年からが本格的開墾です。
 写真はごく初期です。当地は密林に加えて湿地・泥炭地帯で、開墾は伐材と排水溝の整備からです。
 開発当初は畑地が目的で、その後、内田氏が札幌農学校で学んだ本格的洋式酪農も試みられたようです。入植者の大半が富山県の農民出身者で、彼等の性癖にも合わず、氏の執念にも関わらず酪農は成功すること無く終わりました。
 かわりに明治30年代後半は水田化という大嵐が旭川を包み込み、当農園も畑地を」止めて、今の水田地帯を作っていくことになります。

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     ↑:「切り株の残る松平農場の水田」・明治44年6月 撮影。

 開墾地は年々広げもし、耕作内容も変わっていきました。写真地は最初から水田として伐材・整備されたのでしょうか?切り株を多く残しての田植え!収穫が終われば、急ぎ根株を1本づづ取り払ったのでしょう。それにしても巨樹だ。

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 ↑:左から、「新しい松平農場の事務所」・大正2年9月竣工 その頃の撮影か? 
     右、「農場事務所に集まった小作人達」・大正5年8月 撮影。


 この大正5年というのは松平農場にとっては画期的な年なのです。
 明治27年末に農場用地貸し付け出願が許可されました。その後の累積赤地がこの年に累積黒字に転じたのです。投下資本の回収に20年以上かかったのです。開拓・開墾は成功したのです。
 まだ、帳簿上は累積黒字が確定していませんが、6月の早い時期に、所有者・伯爵松平直亮が来道したのです。そして小作人たちへの祝いの言葉だったのでしょう。松平氏はほとんど当農場に来ることはなかった、いわゆる不在大地主です。彼を迎えて、「お言葉」を聞いていたであろう、内田瀞氏も人生の一区切りと思ったかもしれません。

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     ↑:「近文台におけるゼンマイ取り」・明治41年5月30日 撮影。

 内田氏も参加した職員とその家族のリクレーションの光景です。
 こういう写真を撮る人、撮らせる人に興味が湧きます。この時代にあって、こういう風景感覚は面白い。
 実は明治41年というのは、単年度の会計黒字を初めて達成した年なのです。農場経営がようやく軌道に乗りだしたのです。おそらく、農地の水田化が成功の原因でしょう。
 こういう山菜取りは毎年行われていたでしょうが、この年は特に余裕での春の遊行だったでしょう。

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     ↑:「内田瀞夫婦と農場職員家族」・大正6年9月 撮影。

 今展、最大のお気に入り写真です。カメラマンが上手に笑わせてのカットです。最高ではないですか。
 中央の白髪で羽織袴の紳士が内田瀞さん。
 時代は、ヨーロッパ戦争による豆類や馬鈴薯などの高騰で、畑作農家は常軌を超えた大景気。水田農家も米の高騰でしっかり儲けました。当農場は堅実に米作経営に徹し、その後の畑作品大暴落による被害からは免れたとのことです。

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 この第三章は写真自体を楽しむと言うよりも、その歴史的記録性の価値にあると思うのです。そして、過去と今との語らいができることが強みです。
 今展でも、写真風景を訪ねて現在の現場写真の報告をしています。上掲のカラー写真がそれです。
 石狩川に架かる「北旭川大橋」や「永山橋」を過ぎ、40号線を超えて北に真直ぐ進んでいけば、そこら中は旧松平農場跡地です。興国神社、近文第一小学校などは当時の面影があるかもしれない。高速道路の近くには近文台が見えるでしょう。その辺までは現・旭川市ですが、さらに北には鷹栖町が広がり、「鷹栖郷土資料館」があります。その辺も旧・松平農場でしょう。行ったことはないのですが、内田瀞氏足跡にふれれるかも。



◎ 第4章 札幌農学校卒業生との交流
◎ 第5章 家族の肖像

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 いままでの時系列、仕事の世界とは違ったプライベート・ルームです。
 実は「内田瀞、家族の肖像展 -彼の周りの人たちー」、そういう独立した展覧会にしたほうが、純粋に写真にたのしめれるかもしれない。「写真資料としての歴史的価値」という制約した写真鑑賞から離れて、自由に「写真」が楽しめるのです。それくらい、内田氏の「人のいる風景」は面白いのです。



 もしかしたら。担当学芸員はそういう「家族写真展」にしたかったかのもしれない。
 それは旧来の博物館的約束に反するかもしれない。
 言葉少なく説明抜きで、与えられた資料のみで、どこまで博物館的世界が拡がるか?いえ、旧来の博物館的展示世界の見直しをしたかったのかもしれない。
 今展には北海道開拓に関わる見識や資料批判は一切ないと言ってもいいかもしれない。僕は今展の意見交換会で、その点を指摘した。それは指摘されて当然だし、されるべきものだとも思う。だが、担当学芸員はそのことを百も承知で、あえて自己の見識を封印したのかもしれない。「これからの博物館展示とはどういうものか?」「資料のみに語らせるとは」・・・。

 今展の緑色の配布パンフには4枚の写真があるだけで何も書かれてはいない。その不親切さに、批判の声が多かった。それは正しい指摘だと思う。
 だが、先に言った「資料のみで語らせる」という方法論をそのパンフで試みたのではなかろうか?もちろん、確たる自信の結果ではなく、今後の博物館作りのための関係者の小さな決意表明だったのかもしれない。

 博物館は「金がない、人がいない、だから時間が無い」という難しい時期にきている。
 来年から当館はリニューアルされると報道された。
 「リニューアル」、何がどこまで変わるのだろう?替えるのだろう?関係者の悩みは尽きない。


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 ↑:今回寄贈された日記類。松平農場時代以降で、それ以前は今は無いとのこと。
 実に膨大な生きた資料だ。今展を支えた東洋日記。

by sakaidoori | 2009-12-16 15:41 | ☆北海道開拓記念館


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