栄通記

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2015年 02月 28日

2473)「高橋靖子展(グアッシュ 紙 切手コラージュ -2000年~2015年-」ト・オン・カフェ2月24日(火~3月8日(日


高橋靖子 

グアッシュ、紙、切手コラージュ -2000年~2015年-    
        

会場:TO OV cafe(ト・オン・カフエ) 
      中央区南9西3-1-1
       マジソンハイツ1F
      (地下鉄中島公園駅下車。
      北東に徒歩2分。北東角地。)
     電話(011)299ー6380

 会期:2015年2月24日(火)~3月8日(日)  
 休み:会期中無休 
 時間:月曜~土曜  10:30~22:00
     日曜日    10:30~20:00
 電話:(011)299-6380

ーーーーーーーーーーーーー(2.28)



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   ↑:(南9条橋から北方に向かっての豊平川の風景。2015年2月28日 12時頃。)



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 ギャラリー内の様子。完全な逆光で何も見えません。スイマセン。



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 (以下、敬称は省略させていただきます。)


 高橋靖子作品、縫い目の模様や日記風のいたずら描きが、赤や黄などの一色に塗られたキャンバス上で這い回っているのを連想する。その作風はいつ頃だろうか?今展では過去作として2000年頃の作品を展示している。もしかしたらその頃が出発か?そして近作を過去作と対比する形で見せている。

 何はともあれ、過去作を載せます。


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   ↑:「作品(黄)」、2003年。


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   ↑:「黒い赤」、2002年。



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 次ぎに近作を載せます。



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   ↑:「作品 2015年Ⅲ(茶)」。



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   ↑:「作品 2015年Ⅱ(黄)」。




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   ↑:「作品 2015年Ⅰ(赤)」。



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 激しい世界だ。赤や黄の一色の心地の中で、赤裸々に何やかにやが刻み込まれている。縫い込んでいるともいえる。


 新旧作を同時に対比させている。それは我々に「違いを見つめよ」と言っているようだし、「近作の方向性を感じ取れ」と指図しているのかもしれない。
 さて旧作と近作、何処が違うか?

 一つ、旧作を文字や記号が鮮明で、日々の記憶を刻み込んでいるみたいだ。最近作も記号があるにはあるが、単なる縫い目のような荒っぽい点描(縫い目)へ、より抽象絵画へと突き進んでいるみたい。

 一つ、旧作は線の濃淡がしっかりしていた。だから模様図は川の流れのように見えた。あるいは遠近感を生んでいて、絵画全体が3Dのような立体錯視画にもなって絵画離れを起こしかねなかった。実際、僕はこの時期の高橋絵画を見ていて、突然絵画の模様が飛び出ては勝手に動き始めて気持ちが動転したのを覚えている。
 近作は模様の濃淡を打ち消して、一定の強さで画面全体を覆っている。

 ともに細かい部分の寄せ集めの感じだが、その部分をつなぎ合わせるのが一色の地色であり、連続するドローイングの勢い描きであろう。

 思うに、細かい部分部分への関心が薄れて、全体模様がドーンと絵画の出発時に見えているのかもしれない。どんな全体か?ただただ縫い目が這い回っている世界だ。縫い目--間違いなく女の情念であろう。細かい部分分に執着し、その執着の行き着き先は・・エンドレスだ。ただただ縫い目を刻むこと、絵を描き続けること。高橋靖子は自分の絵の様式を作ってしまった。エネルギーを発散させる方法を見つけてしまった。見つけてしまったとということは、それはそれで辛いものがあるだろう。マンネリが恐いのではない。自分のエネルギーが統御されるのが問題なのかもしれない。だからこうして旧作と近作を並べて、その違いの発見の中から画家魂を震いだそうとしているのかもしれない。





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   ↑:「網目(Ⅰ)」、2015年。





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by sakaidoori | 2015-02-28 23:50 | (カフェ)ト・オン | Comments(2)
2015年 02月 27日

2472)「(常設展)彫刻のできるまで 企画展『In My Room』(佐々木仁美)」本郷新 2月17日(火)~4月19日(日)

◎ コレクション展 彫刻のできるまでー本郷新の頭の中    


◎ 「In My Room」vol.10 
  佐々木仁美
   

 上記コレクション展期間中に同会場の一角で開催される若手作家展。「In My Room」として彫刻・立体作品などを個展形式で紹介。


 梶田みなみ ⇒ 2014年12月13日(土)~2015年2月15日(日) 
 佐々木仁美 ⇒ 2015年2月17日(火)~4月19日(日)  


 会場:本郷新記念札幌彫刻美術館・本館
      中央区宮の森1条12丁目
     電話(011)642-5709

 会期:2014年12月13日(土)~2015年4月19日(日)
 休み:平日の月曜日
 時間:10:00~17:00
 料金:一般/300円 65歳以上/250円 高大生/200円 中学生以下/無料

 主催:当館 

ーーーーーーーーーーーーーーーー(2.27)


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 佐々木仁美。
 1985年、札幌市生まれ。30歳になったか?
 2008年、富山大学高岡短期大学部専攻科産業造形専攻修了。

 最初に見たのはグループ「ループ」展だった。2010年?だったか。小振りのブロンズで、正直ロマンという印象だった。その後何かと見続けている。小さな作品に新芽などを挿入して、「あ~、愛を表現したいんだな~、慈しみとか・・・、でも、そのものズバリで解説調だな~、女の子だな~。そんなものがなくっても、彼女の持つ優しさだとか、他人との触れ合いとかは十二分に感じるのだから、新芽や種とかをこれ見よがしに出なくってもいいのにな~」という印象は拭えなかった。が、時折見せる造形そのものへの拘りが気になり、『何が何でも作り続ける』という情熱には感心していた。

 やはり見続けるものだ。今展、形・量塊で勝負だ。硬い硬いブロンズ表面にも工夫探求と今までとはひと味違う。しかも、ほとんどがこの1、2年の作品だ。彼女の今の傾向がしっかり読み取れる。ようやく甘いセンチメンタルから一歩先に出た。何を作っても彼女なりの優しさや愛情感、生命観はでてくる。具体的な姿に引っ張れ過ぎないで欲しいものだ。それでなくても女性は生の形を愛するものだから。



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   ↑:「ある雨の日」・2015年 ブロンズ。


 「ある雨の日」というよりも、「ある夏のズッキーニ」と言った感じだ。それはともかく、何だか変なものを作ったものだ。形に拘り、表面に拘り、触り心地にこだわり、完結したマ~ルイ世界を表現しようとしている。




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   ↑:「寝落ち」、2015年 ブロンズ。



 今展一のお気に入りだ。これを見れただけで大満足だ。

 人間が蹲っているのだろう。おそらく女であり、主婦として見た。日本近代彫刻史を飾った作品を彷彿させる。おそらく、ロダン流の「金属による人間という存在表現」だ。ただロダン流の男性作家は「個」が全てであった。ここには全てを包み込みたい、全てと一体化したい女の生理で覆われている。

 佐々木仁美からデッサン会の出品案内をもらったことがある。そこで初めて彼女の人体デッサンを見た。デッサン作品としてはお世辞にも上手いとはいえなかった。ただ、どうして今更人体デッサンなのかと不思議に思っていた。胸像とか裸体を専門に制作しているのではないから。今作を見て、やっと納得できた。人体を研究していたのだ。

 お気に入り作品ですから、角度を変えて載せます。



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 後ろから。お尻具合が良い。



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 それに反して頭の部分は悩ましかった。髪の表現がどうも・・・。




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   ↑:「今日がはじまる」、2015年 ブロンズ。






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   ↑:「メンターは消えた」、2015年 ブロンズ。



 抽象作品だ。この方向に邁進するとは思えないが、いろいろな形を試みることはいいことだ。もしかしたら、本郷新のようにモニュメンタル作品にも手を出すかもしれない。それは良いことだ。彼の平和そのものの人畜無害の裸婦ばかりでは面白くない。




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   ↑:「空っぽの鎧」、2015年 ブロンズ。





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   ↑:左側、「変わらない空気」、2014年 ブロンズ。
   ↑:右側、「日常」、2013年 ブロンズ。



 こうして二つの作品を並べると、俄然僕好みは左側の「変わらない空気」だ。変わりはしないが、重たいブロンズがふわふわ軽やかで、いろいろ余裕が生まれて心地良い。






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   ↑:「生きている(5点組)」、2015年 ブロンズ。




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 形いろいろ、色いろいろ、皮膚いろいろだ。







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by sakaidoori | 2015-02-27 22:12 | ☆本郷新彫刻美術館 | Comments(0)
2015年 02月 26日

2471)②「土踏まずのあと(道教育大空間造形研究室展+卒業制作展)資料館 終了/1月20日(火)~月25日(日)



土踏まずのあと  

北海道教育大学岩見沢校 芸術課程 美術コース 実験芸術専攻
空間造形研究室展+卒業制作展
   


 【参加学生】
 ギャラリー1:泉菜月 内藤万貴 山田大揮 
 ギャラリー2:林満奈美 
 ギャラリー3:舛野蓮 
 ギャラリー4:杉下由里子  
 ギャラリー5:佐藤拓実 
 ギャラリー6:八谷説大
 


 会場:札幌市資料館2F ミニギャラリー全室
     中央区大通西13丁目 
     (旧札幌控訴院
      大通公園の西の果てにある建物)
     電話(011)251-0731

 会期:2015年1月20日(火)~1月25日(日)
 休み:月曜日(定休日)
 時間:11:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで。) 
 
ーーーーーーーーーーーーー(1.24)

(以下、敬称は省略させていただきます。)


◯杉下由里子の場合


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   ↑:(会場は完全な暗室空間。)




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   ↑:杉下由里子(卒業生)、「common」、トレーシングペーパー 画像 テキスト 光。



 希望の灯火のように小さな写真がある。文字が重ねられて、学生の生真面目な語りと接することになる。とは言ってもかなりの数だ。暗がりだし、一つ一つは小さいから、どうしても全体の気分との会話になってしまう。その幾つかを以下に載せます。



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 「common」、共有。
 「コモン・センス」という言葉がある。「共通感覚」と勝手に理解している(「常識」「良識」と解するようだ)。この言葉こそが「現代大衆社会」を支えている。心理学的言葉ではあるが、社会的言葉そのものだ。
 現在、人は何を共有しているか?この言葉が生まれたときには、「共有」すべき事柄は自明だっただろう。が、「共有」が危機にさらされて、あらためて人は社会の共有を模索し始めた。他人同士は何故に結ばれているのか?その結ばれの根拠は何か?未来永劫に共有できるのか?自分と自分自身との共有感覚、自分と家族、自分と親しい人々、自分と他人、自分を取り巻く社会・・・自分自分じぶんじぶん・・とエンドレスの繋がり。



 杉下由里子は「作者ー作品ー鑑賞者」の共有を模索している。

 確かに会場は他者があって成り立っている。しかし、僕には彼女自身の立つ位置の確認、自分を見つめる場・儀式ではないかと思っている。非常に迂回した自己のさらし方だ。記憶や装置という回路を利用して、自分の世界を「客観的」舞台にしている。「私はここまで心を開いた、これを見つめる他者であるアナタ、私とアナタとの間に会話は成り立つのでしょうか?」と言いたげだ。
 決して叫んではいない。作者・杉下由里子には広い空間がある、そこが彼女の安全域のようだ。私はその安全域を垣間見るだけだ。それぞれが自己の安全域から他者と触れ合う。それが「共有」なのかもしれない。





◯桝野蓮(卒業生)の場合



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   ↑:舛野蓮、「停滞」・海水(能登及び道南、木古内町のもの)映像。


 
 白い置物に映像が流れているだけ。置物は小舟のよう、人魂のよう、楽器のケーナのよう。

 (それなりに写真を撮ったのですすが、ほとんど失敗でした。)



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   ↑:(まるで地球を見ているようだ。)




 綺麗な映像だった。海の青が印象的で、置物の白さも心に残り、ただなんとなく海とか川とかを旅してしまった。

 ルーツ、自分探しの旅なのでしょう。
 映像はどうしても客観性が強くなってしまう。それでは自分が離れてしまう。何とか映像の強さに自分を偲ばせて、美しく旅をしたい。小舟に乗って、歌を唄いながら優しく旅をしたい。
 
 家系が能登半島から木古内町に移住してきた学生なのでしょう。江戸時代に北前船に乗って。もしそうなら、舛野蓮は何代目になるのだろう。先祖は漁師だったのか、商人だったのか、農民だったのか?家には語り継がれた物語があるのだろうか?彼女ならずとも気になるルーツだ。




◯ギャラリー1の場合




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   ↑:泉菜月、「それぞれの窓」・映像 布 フィルム 他。




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 門が丸くって細長いアクリル板をぶら下げる、そのアクリル板には何やら小汚く落書き、そこに何やら風景らしきものが写った映像を当てるだけ。

 そのアクリル板がスクリーンに映っているのだが、ミジンコが泳いでいるようだ。あるいは精子がたむろして明るい方向を目指しているみたい。要するに蠢いている、学生のテーマの窓の中で、窓を目指して。
 文字の模様は映像では遺伝子の二重螺旋構造みたいで、やっぱりこのミジンコは精子なんだと一人合点してしまう。それぞれの精子はぶつかり合うこともなく、自分の存在域で泳いでいるだけ。本来、射精された精子はおびただしい数で、卵子への一番到着号以外はこの世のあだ花のような存在だ。だが、そんな過当競争じみた世界は泉菜月には無縁だ。ましてや精子に付きまとう過剰性や官能などははるかはるかに無縁な言葉だ。気になるのは「窓」だけ。

 「窓」、良い言葉だ。かりに硝子で遮断されていても、人は向こうの世界を連想してしまう。「山のアナタの空遠く、幸い住むと人の言う・・・」ところの窓を夢見る。

 さて、二十歳過ぎくらいの泉菜月の「窓」はどんなだろう。四角い部屋を天上から眺めて描くのが
好きな人だ。部屋ばかり見ていたから飽きたのだろう。今回はその部屋に窓を作った、アクリル板に夢を描いた、そして部屋から外を眺めている。




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   ↑:山田大揮、「土踏まずのあと」・アクリル板 炭酸水素ナトリウム 塩化ナトリウム 足跡。




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 (内藤万貴さんと花井みかさんは記録ミスです。次回はチャンと見よう。9

by sakaidoori | 2015-02-26 11:49 | 資料館 | Comments(0)
2015年 02月 25日

2470)①「土踏まずのあと(道教育大空間造形研究室展+卒業制作展)資料館 終了/1月20日(火)~月25日(日)







土踏まずのあと  

北海道教育大学岩見沢校 芸術課程 美術コース 実験芸術専攻
空間造形研究室展+卒業制作展
   


 【参加学生】
 ギャラリー1:泉菜月 内藤万貴 山田大揮
 ギャラリー2:林満奈美 
 ギャラリー3:舛野蓮
 ギャラリー4:杉下由里子 
 ギャラリー5:佐藤拓実 
 ギャラリー6:八谷説大
 


 会場:札幌市資料館2F ミニギャラリー全室
     中央区大通西13丁目 
     (旧札幌控訴院
      大通公園の西の果てにある建物)
     電話(011)251-0731

 会期:2015年1月20日(火)~1月25日(日)
 休み:月曜日(定休日)
 時間:11:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで。) 
 
ーーーーーーーーーーーーー(1.24)

 実は、この期間中入院していた。暇だったから外出した。何となく当館を訪れた。運良く見ることができた。

 教育大学空間造形研究室が全館を借り切っての展覧会だ。この型式でもう何年も続いている。楽しみにしている学生展だ。
 楽しみにはしているが、なかなか気に入った作品に出会うことは少ない。思いが先行していて、形にするのに苦労している。しかもコンパクトにまとめすぎで、無我夢中さのようなエネルギーを感じることもない。もっともっと赤裸々に「空間表現」を苦労したらいいのにと思う。

 それと、「個展」経験の少なさも災いしていると思う。いかに空間造形を研究探求しているからといって、学生が一部屋を作りきるのは難しいのだろう。とくに、昨今の学生はグループ展ありきだ。「個」を見せようとはしない。今展も個展形式には違いないが、卒展も兼ねているし「みんながやるから私だって」かもしれない。個展はお金も時間も精も根も使う、仕方がない。

 しこし、今年は面白かった。あっさりスパッとストレートだった。エネルギーとか悶々とは縁遠いが、学生のりりしさを感じて好ましかった。
 
 全員を細かく載せるのはシンドイです。なるべく多くの部屋を載せたいので、言葉少なにいきます。


 まずは真っ先に見たギャラリー6から。


ギャラリー6:八谷説大の場合




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   ↑:八谷説大 「crumple(くしゃくしゃにする)」、紙(チQの面積の1/10・14乗の広さ) コンパス。



 なりの大きさの白紙をくしゃくしゃにして、あたかも地球の電磁場のようにしていた。ぶら下げられた磁石が心憎い小道具だ。磁石ー磁力ー磁場ー物と物との関係性ー親和力・・・などなど、シンプルな二つのしわしわ紙が磁石と結び合い、壮大なる物語にも発展しそうだ。地球45億年の旅という物語を。

 ちなみに、下の紙はコンピューターがくしゃくしゃしたもの。上の紙は学生自身がくしゃくしゃしたもの。折り目が随分と違っていた。

 ところで、八谷説大は四角い面を愛する人のようだ。面で構成されたコラージュ作品を見た記憶がある。彼の空間感覚は四角き面がアトムになっているのだろう。それらの面同志が結ばれて空間の分子になるのだろう。面白い感覚だと思った。面の人・八谷説大か?



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   ↑:上部のつり下げられた紙は人間である八谷説大がくしゃくしゃにしたもの。確かにくしゃくしゃだ。




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   ↑:床に置かれた紙はコンピューターという機会が折ったもの。確かに機械的だ。



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佐藤拓実の場合


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   ↑:佐藤拓実、「日本人論」・はんこ 紙 他。




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 「日本論」を考えた結果を形にしたもの、と学生は記している。

 この展示風景に見える、どこか神がかった型式、様式美を「日本人」として把握しているのか?ブラック・ユーモアとしての儀式にも見える。鉢巻きして、天皇をご神体として拝礼し、「乾坤一擲なせばなる、なさねばならぬ何事も!言行一致、突貫あるのみ!」という大東亜大戦争を思ってしまった。







林満奈美の場合



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   ↑:(入口からの光景。)




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   ↑:林満奈美、「道と川と暮らす場所」、布(衣類、寝具等) 糸 枕 布団 ハンガー 等。



 ちょっと寂しい。

 タイトルに「道」とか「川」があるから、流れ流れる日々の暮らし、流れる時間といつもそこにある私の暮らし。並べられた物は学生自身の生っぽさがあるはずだが、展示空間に綺麗さ漂いは生理からは遠く、普段着からも遠い。そんな淡々とした中で、少しでも「何か」を確かめようとしているみたい。




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 布団に川と橋。布団は寝るところ、夢見るところ、汗をかくところ、男と女の営み所、そこに小川が流れている。かぼそき橋が架けられている。布団の中、渡ろうか渡るまいか。川に沿って歩いてみようか・・・たゆたゆしい学生作品だ。夢に追いすがるでもなく、ただ淡々と布団を楽しんでいる。秘め事深き布団であっけらかんと遊んでいる。着せ替え人形達の部屋のようだ。これはやっぱり女の子の部屋なのだろう。




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 一本道の刺繍が意地らしい。




 ②に続く。

by sakaidoori | 2015-02-25 23:45 | 資料館 | Comments(0)
2015年 02月 25日

2469) 「(米澤拓也展) PRISM Ⅱ」 ト・オン・カフェ 終了/2月9日(月)~2月22日(日)


TAKUYA YONEZAWA EXHIBITION(米澤拓也 展)

PRISM Ⅱ
何が見えるだろう、何が見えるだろう  
        

会場:TO OV cafe(ト・オン・カフエ) 
      中央区南9西3-1-1
       マジソンハイツ1F
      (地下鉄中島公園駅下車。
      北東に徒歩2分。北東角地。)
     電話(011)299ー6380

 会期:2015年2月9日(月)~2月22日(日)  
 休み:会期中無休 
 時間:月曜~土曜  10:30~22:00
     日曜日    10:30~20:00
 電話:(011)299-6380


ーーーーーーーーーーーーー(2.15)


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 軽いのりで色が泳いでいた、眼鏡が人恋しくこちらをにらんでいた。


 さっぱりした明るさ、ホップにポップにイロ眼鏡が飛び交う米澤ワールドだ。自分自身が楽しみたいのか、見る僕らを楽しませたいのか、軽いジャブと軽快なフットワークの部屋だ。



 米澤卓也は1989年北海道生まれ。ということは、今は26歳?道教育大学油彩科を卒業し、今は天塩町に住んでいる。ということは、わざわざ北方から、しかもこの寒い時期にイロ眼鏡を持参してきたわけだ。作風は軽いが、動きには並々ならぬ情熱を感じる。
 もっとも、「並々ならぬ」とか「激情」とか「重く難解」という言葉は彼には似合わない。どこまでもさわやかに軽く軽く、「僕は楽しんでいるよ、みんなはどう?僕の絵でちょっと不思議な気分になってよ、絵画しあおうよ」と言いたげだ。

 自分が楽しみたいのか、見る僕らを楽しませたいのか?単なる絵画リップサービスなのか?
 少なくとも今展で「楽しみ」が米澤ワールドの基礎にあると思った。「軽い楽しみ」、そこから進む更なる楽しみ、「赤信号、皆で渡れば恐くない」気分を絵画で作りたいのだろう。





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 ずーっと見ているとブラジャーに見えてきた。自分の目がブラに変身した気分。楽しい妄想がいろいろと浮かぶ。例えば、道行く人の裸の行進とか・・・、それではいかんと仮面ライダーに変身することにした。人畜無害の正義仮面になってみよう。イロ眼鏡は変身の小道具なのだろう。




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 やっぱり、「スケベ眼鏡」に見えて仕方がない。きっと、米澤眼鏡がスケベではなく、僕がスケベなのだろう。いや、変身とはスケベ心を満足させることだ。さわやか青年・米澤卓也もそれなりにスケベなのだろう。ただ、僕は単なるスケベで、彼は絵画という絵空事空間をスケベ舞台にしていることだ。





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 最後に・・・。
 手塩は地方であり田舎だ。
 さて、この田舎で米澤ワールドはエネルギーをもらい続けられるのか?楽しんでくれる「他人」がいるのか?田舎は「阿吽の呼吸」の世界だ、刺激少なきことが良いことだ。絵画は「オレがオレが」の世界だ、刺激を拡大再生産する行為でもある。
 結局、青年画家にとって田舎は自分との闘いの場なのだろう。自己妄想を枯らさないことだ。

by sakaidoori | 2015-02-25 18:12 | (カフェ)ト・オン | Comments(0)
2015年 02月 24日

2468)「第52回はしどい展 (北星学園女子中学高等学校美術部)」大通美術館 終了/2月10日(火)~2月15日(日)






第52回 はしどい 

北星学園女子中学高等学校・美術部 



 【出品者】
 1年:葛西響翔 松村楓愛
 2年:大井千華 廣永吉乃 
 3年:福士万穂 佐々木梨乃 
 4年:五十嵐千夏 五十嵐夕夏 ウィラーセタクルカウィヤ 茂見朋世 飯田キキ 大原麻結花 小村梨紗 高橋まりも 
 5年:小笹鈴奈 佐々木友香 高橋杏佳 田邊理瑚 山内野乃 川口琴愛 斉藤杏奈 山口彩紀 丹野花純 池田ルシィ理沙 石井優衣 今井真子
    
 

 会場:ギャラリー大通美術館 
       大通西5丁目11・大五ビル 
       (南進一方通行の西側。)
     電話(011)231-1071

 会期:2015年2月10日(火)~2月15日(日)
 休み:月曜日(定休日)
 時間:10:00~19:00
     (最終日は、~15:00まで。)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(2.13)

 北星学園美術部の校外展です。参加者も多いので、個別作品を多く語ることは控えます。会場風景とかを多く載せます。


 この学校は大作にチャレンジするのが特徴です。高校生ならばとにかく100号を描く、上手いとか下手だとか、時間が有るの無いのは無視です。実際、大きさに力足らずで、未完じみた作品も目立つ。でも、「これで良いのだ!」が美術顧問氏の指導方針でしょう。「大きなキャンバスに、思い切って立ち向かえ」だ。



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 会場で会話した学生、お気に入りの作品を何点か語っていきます。



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   ↑:5年(高校2年相当)・丹野花純、「経過」。(F80あるいはF100?)


 手前に大胆な階段がある。その階段を薄塗りであっさりと処理している。そこが良い。もっとも、この階段に限らず概ね薄塗りアッサリ作品だ。気持ちを入れてそうなったのではない。時間足らず、熟慮足らず、とりあえず描き上げたとう作品だと思う。それであっても大いに気に入った。というか、この描き方をほめるわけではないが、もし入念に描き込み、物質感や存在感を表現したら、この絵のムードは台無しだろう。
 どこが良いのか。どこかウソっぽくて存在感の無さ、それでいて階段とか四角とか後ろ向きとか隙間とかが随所に象徴的に配されて、どこか不思議の国に入り込みそうなムードだ。本などの四角模様はレインボー風に七色模様で、階段の行き着く先には幸せがあるかも、といっているよう。

 階段、階段、あ~階段は昇るべきか下るべきか?階段の壁は単なる遮断物か別の世界への窓なのか?
 おそらく、描き手は僕の空想に驚くだろう。「私、そんな意味で描いてはいないわ、でも嬉しい」




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   ↑:左側、斉藤杏奈(5年)、「愛(未完成)」。
   ↑:右側、斉藤杏奈、「ポプラ並木」。


 斉藤杏奈、真っ直ぐで一途な学生だった。求めていることははっきりしている。「愛」だ。「愛」に飢えている。「見て見て、私を見て。私を愛して。私もアナタを愛するわ」。

 きっと他人と交わりたいのだろう。信頼関係で結ばれたいのだろう。
 そのことは誰でも思うことだ。手前勝手な僕だって望むことだ。望みはするが、ある程度のところで他人と一線を引いて、自分一人の時間を楽しんでいる。自分向けと他人向けの顔を安定的に使い分けをしている。
 斉藤杏奈は遺伝的難聴者だった。大きな声を出せば聞き取れるのだが、見ず知らずの世界でコミュニケートをとるのに苦労したことだろう。親しい人同士でも、ちょっと離れたところでの言葉は聞き取れないだろう。きっと不安だったろう。そういう「不安感」「不信感」が愛を求める絵画の動機なのだろう。

 上掲の2作、ゴッホ張りの印象主義(表現主義)絵画だ。色をストレートに信じて、筆力で学生自身のエネルギーを吐き出している。多分、エネルギー発散にはまだまだ不十分だろう。だが、周りには過剰な精神で絵画を吐き出している学生はいないから、絵の可能性に目覚めてはいないだろう。やっぱりまだまだ様子をうかがっている。もっともっと吐き出したらいいのに。




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   ↑:佐々木友香(5年)、「夜陰」。


 中央の四角はどんな意味があるのだろう?暗がりでの不気味な時間だから、「チョット不可解な空間」を表現したかったのか?墓場の象徴か?おそらく深い意味はないのだろう。時間足らずで思うとおりに描けなかったのだろう。

 絵としてはこの四角い部分を省略して、上半分の山模様だけの方が収まりは良さそう。青い部分がより神秘的に見えそう。
 絵としてはそちらの方が抜群に良いが、やはり失敗をしないと勉強にはならないだろう。小手先で良い絵にするよりも、未熟な自分を晒した方が画学生には栄養になると思う。

 ホラー気分を出したかったと佐々木友香は言っていた。ガンバレガンバレ佐々木友香!





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   ↑:石井優衣(5年)、「なく女」。



 ステンドグラスのように敷き詰められた背景、これが油彩の感覚なのだろう。空間処理、背景処理ではなく、画面全部を均等に絵にする姿勢、そこが良いと思った。





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   ↑:山口彩紀(5年)、「虚ろ」。


 確かに「虚ろ」的な虚無表現だ。しかし、窓や差し込む光は夢と希望を表現しているのだろう。






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   ↑:高橋まりも(4年)、「庭の街」。



 よく細かくいろんな表現をしたものだ。何かを描くというよりも、絵を楽しんでいるみたい。色形、直線曲線、人物に都会・・・なんでもありの「高橋まりも・庭」だ。




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   ↑:山内野乃(5年)、「宇宙」。



 積み木風の世界は少し繊細すぎて寂しいが、色使いがお気に入り。色だけの「宇宙」も充分描けそうな学生だ。




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   ↑:石井優衣(5年)、「生命の樹」。



 泳ぐような線が目を惹く。線を生かすために背景はアッサリ白模様。それだけでは面白くないから思案する人物を入れて線模様を引き立てている。





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   ↑:飯田キキ(4年)、「戦争」。



 「戦争」とは物騒な言葉だが、絵の中では「戦争」大いに結構だ。色も形も物も生き物たちも思考も、全ては入り乱れる。乱れることが楽しい!絵の中だ、乱闘だ、殺し合いだ、祭だ、戦争だ。

by sakaidoori | 2015-02-24 23:33 | 大通美術館 | Comments(0)
2015年 02月 23日

2467)「首展 (11名の立体作品展)」アートスペース201 終了/1月8日(木)~1月13日(火)

  





首展 

 【参加作家】
 秋山知子 安住賢一 伊藤幸子 桂充子 北村哲朗 園田陽子 長谷川裕恭 藤田尚宏 丸山恭子 武藤未知 山田吉泰   


 会場:アートスペース201 5階E室   
      中央区南2条西1丁目7
       山口中央ビル  
      (東西に走る道路の南側。)
     電話(011)251-1418

 会期:2015年1月8日(木)~1月13日(火)       
 休み:水曜日(定休日)
 時間:10:00~19:00
    (最終日は、~17:00まで。) 

ーーーーーーーーーーーーー(1.13)




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 とても楽しめた。

 はっきりとは分からないが、道展系の公募団体作家が主流の立体展と思い込んだ。公募展でよく見る胸像を見るのだろう、バリバリオーソドックス具象なのだろうと。

 入場するなり思わず笑ってしまった。新年のお笑い福袋館に入ったみたいだった。
 胸像ではなく、確かに首だ。いや、首を含んだ顔展だ。気分は遊び心展だ。
 「遊び心」、表現者にとってはなかなか面倒な言葉でもある。「遊び心展」がおふざけ手抜き展ではない。が、そんな余韻が日本語にあるのも事実だ。むしろ、そう思われることを逆手にとって、普段とはちと違う自分を表現しているのだろう。


 あまり多くの写真を撮らなかった。その範囲でなるべく多くの作品を載せます。とにかく見て、笑って下さい。




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   ↑:藤田尚宏、「未知の現象」・クスノキ ナラ 24×25×20㎝。



 タイトルの「未知の現象」とは意味深だが、そんなに難しく考えることもないだろう。新年、サラリーマン明日に向かって前進祈願か?しかし、真剣な表情の中に、驚き気分もありツイまじまじと魅入ってしまった。




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   ↑:?。(すいません。記録漏れ。)



 顔も髪形風の造形も見慣れた世界なのだが、コンパクトな収まり具合に夢を見てしまった。どんな夢かって?それは麗しき乙女が風舞う野を闊歩する姿です。きっと膝ぐらいのスカートでしょう。




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   ↑:?。(記録漏れ。)



 気になる巨大顔だ。誰が作ったのだろう?





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   ↑:北村哲朗






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   ↑:安住賢一、「陰」・セメントコンクリート 着色 15×17×20㎝。



 まるで「若きウェルテムの悩み」のよう。はたまた「生きるべきか死ぬべきか・・」。そういうイメージなんだ。そして大正時代や昭和前期の貧しくても生きることに精一杯な日本青年みたい。どこか古風な美学の持ち主では。その古風さで現在との対話を試みているのかも?




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   ↑:安住賢一、「隗」、セメントコンクリート 着色 11×13×15㎝。



 泥、あるいは壁から生まれた桃太郎みたい。





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   ↑:長谷川裕恭、「構造」・紙 ダンボール 37×47×22㎝。



 剽軽で楽しい。アッパレという感じだがタイトルに興醒めした。「構造」だ。造形作家であることをタイトルで証明しているみたい。単なる遊び心ではない、と言いたいのだろう。言わなくてもわかるのにな~。言えば関心感心がズッコケてしまう。





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   ↑:桂充子、「雪原で」、石膏 着色 30×20×25㎝。




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   ↑:武藤未知、「こもりく」、FRP 30×40×28㎝。



 普通の胸像展では御法度のような作品。そこが良い。「公募展だけの私を見ないで。いろいろ考えているし、できるのよ」と胸を張って言っているようだ。

 タイトルは「こもりく」。「構造」という野暮なタイトルではないが、逆にちょっと気取った感じ。「隠っている」の意?あるいは、古語で枕詞の「こもりくの」の意?普通に「タバコが似合わない女」、でいいと思うのだが、やっぱり作家という家業はいろいろな思いがあるのだろう。




 <span style="color:rgb(0,0,255);">もう少しありますが一端アップします



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   ↑:秋山知子、「記憶の方法」、石膏 他 25×25×35㎝。



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   ↑:?(記載漏れ。)





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   ↑:伊藤幸子、「葉の浪 Ⅰ&Ⅱ」、石膏 (Ⅰは)45×34×48㎝。

by sakaidoori | 2015-02-23 22:19 | アートスペース201 | Comments(0)
2015年 02月 22日

2466)「土岐美紗貴 COCOtU」 創 終了/2月4日(水)~2月15日(日)


土岐美紗貴 COCOtU      
 



 会場:ギャラリー創(ソウ)
       中央区南9条西6丁目1-36
        U-STAGE・1F
       (地下鉄中島公園駅から西に徒歩5分。
        南9条通り沿いの南側。)
     ※駐車場は2台分完備
    電話(011)562ー7762

 会期:2015年2月4日(水)~2月15日(日)
 休み:火曜日(定休日)
 時間:11:00~18:00
     (最終日は、~17:00まで)
 

ーーーーーーーーーーー(2.5)



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 押し花のような植物が版画として、土岐美学として再生している。
 作家本人は空間を意識して発表しているという。確かに、この白さこの余白このたたずまいはそうだろう。

 それにしても不思議なものだ。植物につきまとうエロスを全く感じない。「コレクション」という表現様式につきものの、性につながる妄想がない。
 今展、前向きな生命力、居住まいを正した端正な美に触れるばかりだ。作り手が若き女性だからだろう。自分自身がかく美しくありたいと祈っているようだ。「この空間は私自身、私はこんなに美しいでしょう」と言っているようだ。


 あれこれと言葉を続けても仕方がない。作品を載せて行きます。
 土岐美紗貴・卒業記念展です。一人の女性の門立ちを祝福しよう。



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 黒い斑点が特徴的だ。水墨画のよう。黒と線と余白、古典的東洋美を踏まえている。古典美との違いは、素直さだろう。一途な生命力だろう。若さからくる未熟ではなく、「作り手の若き力と女性としての自愛美」、という可能性だろう。




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 上掲の姿は、増殖へと発展し、「生命力のおぞましさ」へと変貌するかもしれない。しかし、そうはならないだろう。そういう領域の手前で楽しんでいる。

by sakaidoori | 2015-02-22 22:03 | 創(そう) | Comments(0)
2015年 02月 21日

2465)「竹中春菜 橋本つぐみ(藤女子大写真部4年)二人展 reply」ニュー・スター 2月17 日(火)~3月2日(月)





竹中春菜 橋本つぐみ 二人展 
reply

 
(藤女子大学写真部4年)


 会場:ギャラリー ニュー・スター
      中央区南3条西7丁目・KAKU1階
       (西向き一方通行の道路の北側。
       美容室kamiyaの隣。)
 電話:
 期間:2015年2月17 日(火)~3月2日(月)
 休み:火曜日(定休日)
 時間:11:00~20:00
      (日曜日は~ 17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーー(2.20)



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 ビシッと決めたモノクロ・ワールドだ。

 橋本つぐみはやや淡い色調で心象気分。
 竹中春菜は黒の強さに変化をつけ、被写体そのものと向き合う姿勢。
 狭いギャラリーは二人の巣箱のようだ。ヒバリさえずる生娘(きむすめ)2人展だ。


 昨日拝見。それにしても良い天気だった。天気に誘われてか、3人の塊ができた。見知らぬ女性は気分は上々で目が笑っている。無言では立ち去りがたい雰囲気、何となく二言三言の立ち話。2月というのに春気分の陽気は他人同士を引きつける。
 もう一人の男性は顔見知りの写真家。始まったばかりというのに2度目の訪問という。これまた良い感じで立ち話だ。


 (以下、敬称は省略させていただきます。)



 左側の橋本つぐみから載せます。



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 橋本つぐみは高校時代から写真発表をしていた。僕はその頃を全然知らない。彼女を知る人たちは大いなる期待で見守っていたはずだ。

 結果は・・・、僕は伸び悩みだったと思っている。
 大学入学時のお祝い桜写真も見た。同性愛者達の街中行進も撮っていた。「女」あるいは「女の子」の性にも取り組んでいた。藤女子大特有のモノクロで「風景」にもチャレンジしていた。
 圧巻は、今回の相方・竹中春菜がモデルだ。昭和ロマン的な「女の子」の標本世界でゾクゾクとした。抜群に良かった。橋本のテーマの一つ「女、女の子、性」にも適っていて、その自作の期待を高めた。

 しかし、ここからがいけなかった。相棒・竹中春菜への全面的な信頼は、他の被写体を強く見つめるキッカケにはなれなかった。

 もしかしたら橋本つぐみはセンチメンタルでロマンティックな女の子なのかもしれない。「何かを強く撮らないといけない」という自意識と、「自分の気持ちを吐き出したい」という感情が上手く重なっていないのかもしれない。

 今展、素直な作品だと思う。優しさもあり、男の撮るモノクロとちょっぴり違う感じだ。でも、結局は意図的に求めていたこととは随分違う位置にいる。自分に正直になたのだろう。回り道、試行錯誤の「卒業」という儀式だ。
 卒業後もモノクロに拘るのか?原点のカラーに戻ってより楽しく写真をするのか?な~に、焦ることはない。気長に続けて、大学時代とは違った橋本を見せたらいい。




 次は竹中春菜です。




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 おーっ、森山大道顔負けの迫力だ。いきなりのハード・パンチだ。




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 この花は撮影者自身だ。

 竹中春菜は野に咲く花を愛する。綺麗とか可憐ではなく、強くしっかりそこにある、という姿を愛する。だから、単作で勝負するタイプだ。その一作の中に自分自身を含めた全部を表現する。そういう意味でのモノクロ派だ。ありのままの美ではなく、誇張を含めてあるべき姿としての美を探求している。理想や願望を強く自覚している。



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 まるで中国の「集合住宅のある風景」みたいだ。どこか場末がかって現代との断絶を感じる。それは「昔々~」とか、「トンネルを抜けると・・」で始まる物語の手法で、見る者を別次元に誘う。

 僕は先ほど、「竹中春菜は単作作家」だといった。今まではそうだった。ここにきて、彼女の中の物語が蠢き始めた感じだ。きっと今までは「自分らしくある」という写真に拘っていたのだろう。写真による存在証明だ。その段階は終わった。まさしく「卒業」した。今展は「物語の始まり、予告編」だ。展示作品の黒の色使いはかなりバラバラだ。意図したものではないだろう。あれもしたい、これもしたいという気持の表れだ。

 きっと、地道に写真努力をしたのだろう。気持ちの上では焦っていても、一歩一歩着実に技術と感性を磨いたのだろう。



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 以下、雑談。藤女子大とモノクロ雑考。



 藤女子大学写真部4年の竹中春菜と橋本つぐみの二人展。いわゆる卒業記念展だ。

 ここの写真部はモノトーンで有名だ。だからだから今展もモノトーンだ。

 不思議なものだ。他大学写真部も暗室の備えはあるのだが、今や発表はカラーが主流と言ってもいい。そして被写体は極々普通の身辺事情ばかりだ。
 その中で、女子大学なのに孤軍奮闘でモノクロ主体でやっている。さぞや男勝りの勝ち気な女性と思いきや、いたって普通ムードで可愛い女子学生ばかりだ。しかも小柄だ。暗室の中でジトーっと時間をかけて写真に向き合う。「良い黒よ黒よ、出てこい!」、「あ~、この淡い灰色が良いんだよな~」と自問自答しながら悪戦苦闘しているだろう。間違いなくそれは良いことだ。

 写真行為をすること、写真を知るには暗室体験は最高だ。悪いわけはない。ところがどうしたことか、この女子大学の卒業生達、卒業後の発表をあまり聞かない。

 何故か?僕は根ながら考えた。

 結論その一。
 モノクロからカラーへの意向に失敗したのだろう。変にモノクロに拘りすぎたのだ。
 卒業後に暗室制作を続けるのは至難だ。それに、これはどんな写真家にもいえるのだが、デジカメで膨大な写真を撮っている。至って普通の女の子がモノクロを続けるのには無理がある。

 結論その弐。
 モノクロは男の美学だと思っている。そこにはウソがある。いや、ウソばかりだ。だからカッコイイ。ウソの中で勝手に空想、妄想に浸ることができる。壮大なロマンに酔うことができる。
 だいたい、現在の美術は西洋価値観を前提にしている。その西洋美学&美学史は男の価値観の結晶だ。
 そのモノクロを普通の女の子が継続するには無理がある。

 結論その参。
 被写体としてはモノクロは何でも料理しやすい。料理とはまさに加工で、撮影者の美学に高めることだ。多重露光でとんでもない加工をしても、黒の美学を重んじるモノクロはあまり異様とは思わない。むしろ、「虚から実」というサインになる。
 その点、カラーは等身大を前提にしている。もちろんいかようにも加工できるのだが、加工それ自体が「実から虚」というサインになる。
 空想よりも生身の実感を愛する女性軍は、鑑賞はともかくとして、なかなか無意識的かつ自覚的に「虚」を前提にはしにくいのでは。

by sakaidoori | 2015-02-21 18:21 | ニュー・スター | Comments(0)
2015年 02月 20日

2464)「岡田敦 個展『MOTHER-開かれた場所へ』」 cai02 10月5日(土)~10月12日(土)

   


岡田敦個展 
 
MOTHER-開かれた場所へ
  

     

         
 会場:CAI02
      中央区大通西5丁目 昭和ビル・B2 raum1    
      (地下鉄大通駅1番出口。
    ※注意⇒駅の階段を下りてはいけません。
          昭和ビルの地下2階です。)
     電話(011)802-6438


※ オープニング パーティー⇒2月14日(土) 19:00~22:00 


 会期:2015年2月14日(土)~2月28日(土)
 休み:日曜・祝日
    ※2月21日(土)は演奏会のため、展覧会は休み  
 時間:13:00~23:00
      

ーーーーーーーーーーーーーーー(2.20)




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 見方としては入口から壁なりに進んで見るべきだろう。実際、そうやって僕は見た。
 裸婦の妊婦姿があり、いささか大仰な額に出くわして女のアップ顔を見て、不思議めいた自然が続く。そして・・・出産時のクライマックスへと作品は進む・・・アッ、性器から黒髪の頭が出ようとしている。白い医療用手袋が写真に優しく納まり、「正に分娩時」と呟いている。女ー性器ー赤ちゃんー白い手袋、「母」をこう表現したのかと、リアルな姿に驚く。


 その後半からいく点かまとめながら載せていきます。全ての視覚感覚は、性器がらみの赤ちゃんシーンに集中してしまうから。



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 気になる出産シーンを載せます。



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 被写体としてはちょっとした驚きだ。生まれいずる瞬間の接写だ。

 だから、女性器もしっかり見える、赤ちゃんの黒髪も見える、白い手袋がまるでマジシャンのようにして赤子の姿をあぶり出している、そして赤ちゃんの顔がしっかり見え始める、誕生だ。
 女性器露わな姿に驚き、美しい手袋に驚き、赤ちゃんに驚く。その主役の「母ー母体」は感覚からするりと抜けている。余韻をかみしめるようにして会場作品を追いかけていくと、やっと「女」に出会う。だが、母体特有のおっとりした表情ではない。どこか突っ張っていて、母と女の格闘をしているようだ。いや、母とか女とかの役割からずれた存在に見えてしまう。当然その姿は撮影者の意志と意図だろう。演出だ。


 出産、写真作品の一連の流れはどのくらいの時間が経っているのだろ?すんなり生まれる場合は幸いだ。一気に「おぎゃ-」と泣き叫び、周りの親族は笑顔と安堵で緊張が解ける。
 それに、写真は時間を止める。もし、父親が立ち会っていても、この写真を見るような感覚とは違うだろう。ここには100%の視覚感覚と時間を止めての知と記憶がある。分娩時は時が支配する。出産という異常事態に判断力は何処かに行き、ただただ事態の進行を臭いと伴に眺めるだけだろう。




 自分の長男の出産時を思い出した。確か仕事が終わる午後5時頃だったか、公衆電話で出産の様子を病院に尋ねた。「今、頭が見えています。なかなか出そうもないです・・・器具で引っ張って取り出します・・・」
 今から35年ほど前のことだ。携帯電話もない。立ち会い出産など考えもしない頃だった。トイレにある吸盤のような器具で息子は出生した。

 最近、孫が二人産まれた。一人目は長男のお嫁さんが出産。二人目は長女の出産。
 その長女の時、出産近くまで彼女の側にいた。分娩室と控え室を兼ねた部屋だった。娘は陣痛でうめき始めた。僕以外に身内はいない。仕方がないから、腰のあたりをさすってあげた。すると娘は気持が良いという。どれくらいさすってあげたか?父と娘の不思議な時間だった。




 露わな女性器を撮りこんでの作品化。嫌らしくはない。そのまんまの姿だ。皮膚、あるいは内臓につらなる肉としての性器、感応や妄想の入る隙間はない。
 あっけらかんな視線には困ってしまう。チラリズムとか、秘部とかがあるから妄想もたくましくなる。

 出産時の撮影と作品化、見たことはない。作品としての盲点を突かれたようだ。一般市民の目には届かなくても、芸術作品(アート)としては似たものがあるのか?



 この作品は道立近代美術館に展示される予定だった。美術館側の反対で反故になったという。露わな女性器が公共空間には不向きという判断だ。憲法でいうところの「公序良俗に反する」ということだ。もっとも法律論争は避けて自主規制で問題を処理した。撮影者は「表現の自由」を訴えている。美術館側の判断に、小さな波紋が関係者の間には起こったことだろう。

 美術館の愚かさには議論をする気にもなれない。撮影者の怒りはわかるが、かといって展覧会参加拒否までの実力行使はしていない。新聞にも彼は自己主張をしている。が、その新聞は女性器作品を載せてはいない。三者三様でむずがゆいアートシーンだ。

 「表現の自由のないところにはアートは育たない」という主旨の言葉を撮影者は訴えている。僕はそうは思わない。「禁忌」があるから人は興奮する。興奮が芸術を育てる。秘密があるから、秘密を秘密として芸術表現を高めようとする。女性器とそれにまつわる世界はその最たるものだ。

 今回、撮影者は「女性器」という秘密のベールを剥ぎ取った。その行為が新たな秘密を生めば幸いだが、我々はそこまでイマージネーションが豊だろうか?私は62歳で初老の段階だ。今は豊かな時代だと思っている。物質的豊かさは全ての秘密を剥ぎ取る。特に日本は秘密が少ない。芸術の低迷はその辺にもあるのでは・・。



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by sakaidoori | 2015-02-20 23:41 | CAI02(昭和ビル) | Comments(0)