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2016年 05月 15日

2523)「佐藤準 写真展 『sapporo』」 エッセ 5月11日(水)~5月22日(日)

佐藤準写真展 
    「sapporo
         

 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2016年5月11日(水)~5月22日(日)
 休み:
 時間:10:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで) 

ーーーーーーーーーーーーーーーー(5.14)



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 ごくごく普通のスナップ写真が、壁一杯にあるはあるは!!
 いや~、ホント楽しい写真展だ。緊張が緩んで、お尻の穴がふわ~っと開きそう。

 綺麗に並べてるから、そんなにビックリしない。何となくポカ~ンとしてしまうだけ。被写体も身近にありそうなネタがほとんど。これまた驚きは少ない。
 しかし、しかしだ。この、量という存在がこちらに迫る。何となく身近な風景を、ついつい入れ込んで見てしまった。




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 どうですか、圧巻でしょう。
 「作品がよく見えない」って?
 それではまとめて見ていって下さい。



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 どうです!お喋りするのに声がつまりそう。
 佐藤準はバシバシと撮り続ける、こちらも負けずに思いついたことを「スナップ的」にメモしよう。

 春夏秋冬と時の流れで並んでいる。
 でも、白黒だし、季節をあれこれ語る感じではない。季節巡りは展示を安定させるための工夫だろう。とにかく、一杯一杯の作品だ。季節巡りで疲れさせずに何とかして会場を一周させる。気分は「自然に見てね」。

 季節よりも人間だ。
 女の子男の子、児童に少女に女学生、青年成人中年老人、アベックに仲間同士と人間が一杯。でも、ほとんど行きずりの人だ。間違いなくコソッと撮っているだろう。なのに、「覗き見した」という感じはしない。むしろ堂々とおおらかだ。そこがこの作品群の魅力だ。常にシャッターチャンスをねらい、その瞬間をすかさずパチリ。だが、急いで撮ったとか、コソコソ感を残さないのが佐藤流だ。かつての森山大道ばりのボケ・アレなどは御法度だ。「大道よ、そんなに焦って何処に行く」、というのが信条だ。「写真は記録だ」なんて、わかりきったことで悩みはしない。一枚のスナップに小さな楽しみ、幸せ、語らいを取りこむ。どれもこれもが佐藤夢物語の一コマみたい。


 どんな夢物語・・・。
 「寝る人」が沢山いる。ちょっとお邪魔しよう。



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 次は、ロマンチスト佐藤準の本命を載せよう。女性たちだ。

 女性がみたら、「なんてこの人、初(うぶ)なんだろう」と言うかもしれない。「エロスという女」ではない。「少女っぽい仕草、可愛さ、生き生きさ」が大好きだ。中高校生が、女の子やお姉さんやよそのお母さんを見る目だ。彼にとって「女を見ること」、それは「優しさや憧れや夢」と同じみたいだ。「見ること」、そこで止まりだ。せいぜい「ちょっと、お話したい」。いやいや、「隠れてあの娘(こ)を見守ろう」。
 日々街に出ては「女」という「夢」を繰り返し見る、その成果が今展であり、飽きることなく明日も続く。哀しいほど楽しい繰り返しだ。



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 最後に、栄通好みを3点?載せます。


 まず、ベストワン--


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 もう一点。



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 更にもう一点--



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 304枚の展示!その行為に拍手を贈ろう。一緒に敬意も。




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by sakaidoori | 2016-05-15 10:13 | エッセ | Comments(0)
2013年 11月 08日

2297)「伴百合野展 『たとう(畳)紙に游ぶ』」 エッセ 11月5日(火)~11月10日(日)

 



伴 百合野展 
たとう(畳)紙に游ぶ
          




 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2013年11月5日(火)~11月10日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで)

※ 作品解説          ⇒ 11/7(木) 10:30~12:00
※ ワーク・ショプ(見学自由) ⇒  同日   13:00~15:00 

ーーーーーーーーーーーーーーーー(11.5)


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 屋外からの会場風景です。


 まずは会場風景を見て下さい。



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 (以下、敬称は省略させていただきます。)



 着物の収納用紙である「たとう紙」が主役だ。その紙を日本画の支持体にする。それを組み合わせて大きな絵画?(作品)にしたものだ。たとう紙だけの貼り合わせではもの足りない。着物(古着)も適当に切ってはコラージュにしてある。

 今展は大きな試みだと思う。
 まず、たとう紙という支持体を自由に貼り合わせて、作品の巨大化、自由伸縮性の可能性を試すことだ。
 伴百合野の精神は既存の型枠にフィットしないところがある。大きく羽ばたく自分の精神を見たいのだ。その精神がたとう紙の貼り合わせになった。

 「だったら、普通の日本画の支持体を貼り合わせてもいいのでは?」
 ふむ。この手法を単純に続行していけば、いろんな大きさの紙の貼り合わせになるかもしれない。
 そういう方法への道を開いたとも言えるが、今は「たとう紙」という形、その意味にこよなき愛を抱いている。そこが女性的で、普段の包装紙という脇役から表舞台に立たせたい。それと、古い物への愛着、拘りがあるのだろう。これらの材料はそれなりの年月を過ごしていて、廃棄寸前だったと思う。もったいない精神と、人生なり世界の有り様を見つめる素材にもなっている。

 そして今展の特徴のもう一つは、作品は既存の形を脱して不定形になったが、作家の目指すメッセージに集約されて、ある種の形を形成した。単に切った貼ったの自由爛漫という方向には行かない。過剰な精神がある形を得た、といってもいいかもしれない。

 「形になった」と言っても、今展は「たとう紙精神」での始まりの姿だ。そのメッセージの内容共々、さらに膨らむ伴百合野を楽しく追いかけよう。



 作品を左回りに載せていきます。



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   ↑:左側、「層」。


 この壁面作品群は既発表作。今展のような構想に至る原点のようなものか。

 個々の作品は、全体が「たとう紙」を拡大した感じになっている。



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   ↑:「分水嶺」。


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   ↑:(上掲作品の部分図。)




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   ↑:「鎮魂の構図・四神」。


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   ↑:(上掲作品の部分図。)





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   ↑:「国際会議 あるいは条約締結」。


 これから先が今展用の作品だ。そして「トランプ」がトリック・ボーイのようにして場を繋いでいく。

 「国際会議」を揶揄しているようだ。大国の振る舞いをトランプ博打になぞらえている。批判精神と遊び心だ。それぞれのトランプにはどこかの国を当てている。真ん中の紐をほどけば腹の中が見えるかもしれない。

 
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   ↑:(以上の3点は上掲作品の部分図。)


 この手紙、実際にイスラエルから届いた郵便物だ。遙か昔の消印だろう。







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   ↑:「環」。



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 これは大作だ。充実の一点だ。

 「何に見えますか?」
 カメラ・アイ、雪の結晶、青い太陽・・・あるいは輪廻転生、あるいは万物は輝く?

 少なくとも、伴百合野は輝いている。

 



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   ↑:「王と王妃」。


 きっと何かを賭けてのトランプ遊びでしょう。秘密めいていて、どこか間抜けなお二人だ。






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     ↑:「トランプ遊び」。

 

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   ↑:(上掲作品の部分図。) 



 今展は比較的白味の多い展覧会だ。そこに青が作家の色として登場している。

 この作品は、ピンクが可愛く華やいでいる。




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   ↑:(上掲作品の部分図。)





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   ↑:「湖・層」

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   ↑:「貝」



 中央でぶら下がっている作品。裏表がリバーシブル。




 新作を含めて、あまり個々の作品の感想が書けませんでした。現地で楽しんで下さい。

 日曜日までです。意欲盛んな伴百合野、何かにもの申す伴百合野、今が始まりといわんばかりです。




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by sakaidoori | 2013-11-08 23:23 | エッセ | Comments(0)
2013年 10月 05日

2244)「松田研 個展」 エッセ 10月1日(火)~10月6日(日)

  
   

松田研 個展         




 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2013年10月1日(火)~10月6日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーーーーー(10.5)


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 今展の特徴の一つは、西日です。その影と線と作品の語らいです。



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 そして特徴の第2は、この白化粧をした七色の大作です。

 そして第3の特徴は、のんびりゆったり見れることです。

 「過剰性」、その「制御」、そして「消去」という三つどもえの絡み合いで作品と展示は成り立っています。あの「×の男・松田研」がこれほど綺麗になったのか、と驚かされた。

 (以下、敬称は省略させていただきます。)


 何はともあれ、大作をドーンと載せましょう。


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 全体が白っぽく見える。多数の色を枠という作品に埋め込んで、その全体を白い皮膜で覆っている感じ。実際、白を全体に薄くコーティングしたのでしょう。
 その白さと部屋の明るさで気づきにくいが、トレード・マークの「×」が左上から右下に4点描かれている。


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 この×は絵を意図的に制作し、発表して以来、一貫していてブレがない。仮に描き始めの出発から「×を一生描き続けよう」と思っても、40年間実践するとは!それだけでもアッパレで、画家根性を越えて、ど根性を一本道に感服する。

 なぜ「×」か?
 おそらく氏の誕生年が関係しているだろう。1951年の人だ。政治の時代、闘う時代の「団塊の世代」に、限りなく近づいてはいるが遅れた世代だ。激しい時代の余韻は社会に蔓延していた。が、物騒さは消えて、経済一本道を力強く歩み出した。
 確かに大学では、「ワレワレハ、ベイ帝国主義と、ニッポン帝国主義の・・・」というセクトによるマイク闘争はあったであろう。が、肝心の「団塊世代の人達」が社会に吸収され、企業戦士として再出発した。学生闘争で経験した人間掌握術や集団力のすさまじさを職場でいかんなく応用し、成果を求めて経済闘争に邁進した。

 そんな中で、何かに意義申し立てをしていた集団もいただろう。だが、一人去り、二人去り、気づけば周りには点でしか繋がらないわずかな「仲間」が残るだけだったろう。

 松田研は出発の「×」を美術行為として今でも守り通している。「オレだオレだ精神であり」、「現状に対する何らかの意義申し立ての気印」であり、作品を成り立たせるバックボーンだ。団塊の世代の末裔であったからこそ為し得たのかもしれない。熱い心を持つ人だが、醒めた目も自覚していたことだろう。


 とは言っても、×は×でも以前の×と全く同じではないだろう。特に、×を取り巻く作品背景は随分と変貌した。今展の作品の美しさがそれをしっかりと証明している。
 沢山の色は社会だろう。人々だろう。全ては繋がっている、と言いたいのだ。それでもただ色(人)がひしめいているだけではない。×という旗印のもとで美しく存在している、関わり合っている、そして×心も皆が持っている。和合と闘争の統一だ。それは松田研の見果てぬ夢なのだろう。




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 「×」が砂に埋もれて、化石になったみたいだ。美しき「痕跡」だ。



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 真っ赤な赤より、薄い赤が良い。
 強い赤は純血で、他人を知らない。
 薄められても淡い赤が良い。他者とつきあい、相手の心も抱き続けるから。優しくなれるから。
 心に×を秘めていればそれだけで良い。一色で剥き出しにする必要はない。
 ・・・・
 そういえば、昔は白と黒の×ばかりを描いていたな~。素晴らしき若き時代であった。










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   ↑:(上掲作品の部分図。)



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 会場のなせる技だろう。幾つもの要素を絡ませている。
 「光と影」、「直線と面」、「赤と緑」、「白と黒」、「光の直接性と、空気の間接性」、そして何よりも「消去」を中心にして、場が成り立っている。




 最後に、入り口近くに在った作品を載せます。


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   ↑:(上掲作品の部分図。)






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by sakaidoori | 2013-10-05 11:44 | エッセ | Comments(0)
2013年 09月 29日

2231)「北村哲朗彫刻展 -大地の構図-」 エッセ 9月24日(火)~9月29日(日)

      
   
北村哲朗彫刻展 

   -大地の構図
          




 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2013年9月24日(火)~9月29日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーーーーー(9.28)


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 (以下、敬称は省略させていただきます。)



 写真を見てもご覧のように、トーテンポールとか、仏像(マリヤ像?)のような作品が厳かに立ちすくんでいるだけだ。
 
 札幌で、木の力感や魅力を、大きく直裁に伝える作品展も珍しい。
 作家は大滝村(現伊達市)をアトリエにしての制作だ。小さい頃に当地で生活していたという。身の回りにあった木のボッコやカケラをストーブの前でいろいろと遊んだ少年かもしれない。その少年が大きくなって、大きく遊んでいるようなものだ。

 少年の頃の遊びは、ただ木と戯れることが主だったろう。もっと上手く作れたらとか、作品を眺めては一人満足した夢心地にもなったろう。もっとも、ノミだとかの道具を使ったかどうか? 
 もちろん今も当時の心は残っているはずだ。が、年を経ると、遊ばせてくれる環境なり空間が、単なる場ではなくなる。拡張された自分の世界であり、自分を包みながらも越えていく別次元の世界になる。自己表現を生む場に変質する。

 今展、そういう環境に対して、「自画像」であり、「包み込む女神像」であり、「一体化した守護霊」として個々の作品が立っていた。




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   ↑:「陽炎」・材 黄蘗(キハダ)。


 できることなら、10mもある倒木をそのまま陽炎にしたかったろう。そして記念碑としてその近辺、人と出会えそうな場所に立つ、朽ちるまで立ち続ける。
 そんな作品を持ち運ぶことは無理だ。そんな思いを胸にしまいながらの作品として見た。

 ただ、今作の陽炎はは一つではない。無数にある陽炎の断片のようなものだ。いくつかの陽炎が立ちのぼる、まるで人々が生きているようにして。
 一人の凛々しい姿ではないところが、一本の巨木の金字塔作品とは違うのだろう。





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   ↑:「懐」。楢(ナラ)。


 母子像。仏様、観音様でも、マリア様でも構わない。間違いなく「祈り」であり、大地への「賛歌」であり、「感謝」だろう。
 だが、大仰に宗教的でないのがいい。「これはあくまでも、作家・北村哲朗の儀式です。見る人よ、そんなにかしこまらずに、母体彫刻として楽しんで下さい」、そんな作家の等身大の人間性がにじみ出ている作品だ。


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 下腹部のふっくら感がいい。体のラインと木の組成をダブらせて、生命力を持たせようとしている。
 北村哲朗は、木の内部の筋に狙いを付け、そこを赤裸々にえぐり出し、木の力の根源を表現する作家だ。ビッキのように、表面のノミの跡に何とも言えないセクシーさを残し、全体の量魂と良き対比をなしている彫刻作品もある。
 北村哲朗は、木の生きた痕跡をいつまでも残すことに重点があるようだ。表面も彫り師の痕跡を残すよりも、生きていた頃の枝や瘤のある姿ををどこかに残し、「まだまだ木として生きているぞ」と言いたげな取り組みだ。



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 顔の部分、どこかぎこちない。他の力強さに比べると、ちょっとアンバランス。
 未完成なのか?そうだとしても未完成を楽しんでいるみたい。形を決めかねているが、作家自身は眺めているだけで満たされているのだろう。






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   ↑:「貌」・栗。


 ご本人は自画像と語っていた。
 僕は、作品をひっくり返すと、二本足のある人型に見えた。「人、あるいは自己」として見た。
 もちろん、今作品は上部の穴の開いた共鳴部分に重要な意味があるのだろう。何かの受容体であり、発信体。当然周りは森の中だ。




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   ↑:「森のもの」・栗。



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 こうして作品展として個々を見るのもいいが、住居の前だとか、隣接地域の境界域だとか、そんな自然の中で立ちすくんでいる姿として見たいものだ。

 そういう場としての札幌は可能か?残念ながら、あまり意味をなさないかもしれない。ここは都会だ。中央に比べれば弱いとは言っても、マンパワーの立ち込む場だ。今や自然とありのままで対話する場ではないだろう。
 こうして、作品として忘れていたことを思い出させてくれることに満足するのみだ。

by sakaidoori | 2013-09-29 11:31 | エッセ | Comments(0)
2013年 09月 11日

2197)「内山恵利 個展」 エッセ 9月10日(火)~9月15日(日)

    
   
内山恵利 個展         




 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2013年9月10日(火)~9月15日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーーーーー(9.10)

 昼の光も眩しく、広い会場で気持ちよく個展をしていた。


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   1989年 北海道北見市出身。
   2012年 道都大学 卒業
    現在  京都精華大学大学院染色コース 在学



 現在、京都在住で、大学院の夏休みでの帰省、そして個展だ。
 1点を除いて無茶苦茶道都大学時の作風とは変わっていない。その変わった作品が、個人的には気に入った。


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   ↑:「ひとつだけ」。(作品番号①)


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 「モダン日本画」と「若者ドローイング(落書き)」との合体だ。

 今展は全作シルクスクリーンだと思う。そして、生地によるオーソドックスなテキスタイル展でもある。
 こういう作品を5~10種類作って、テキスタイルでも良いのだが、面倒だから大判ロールにプリントして、部屋中を賑やかしたら楽しいだろうに。内山恵利版・岡本太郎だ。作品展を通り越して、インスタレーションによる空間展、バリバリの現代美術だ。もっとも、それを内田恵利が欲しているかは定かではない。「染色の勉強」で京都に行っているのであって、現代美術の修羅場を欲しての遊学ではないだろう。





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   ↑:「無題」。



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 彼女の中での伝統工芸美とキャラクター&落書き好みの自分らしさとの融合だ。この紫の出し方と一色で納める術こそ勉学(京都)での賜だろう。確かに成果には違いない。が、僕には何とか自分らしさを伝統(学んだこと)と両立させたいという焦りのようなものを思う。①の作品ほど自由さが無い。
 そもそも、伝統工芸美と勢いに基づく落書き描写との両立を、ストレートに京都の教育者は認めないだろう。認めても、「(田舎ものには)まだ早い」で終わるだろう。「しっかりと職人的技術をマスターせよ」だ。道都大の中嶋ゼミと老舗(日本美のメッカ)京都の大学との、教育上の根本的な違いがあるだろう。
 
 「技術」と「自分らしさ」の統一、言うは易く行うは難しだ。「技術」や「それを支える理論」を学ぶことでカルチャー・ショックに陥りかねない。仕方がない。北海道出身という田舎者が、大都会で何かをなそうとするならば、一度は通る大道だ。落ちよ墜ちよ、トコトン。後は昇るだけだ。


 それはそうと、彼女自身の雰囲気が実に宜しい。道都大学時代と違って、堂々としている。会話のやりとりも清々しい。焦りなんて何処吹く風だ。頼もしい。そのうちに、「栄通さん、バカいってんじゃないよ」と、楽しい言葉も聞けるかもしれない。もっともっと頑張りたまえ!




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   ↑:「無題」。



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   ↑:「無題」。



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   ↑:「かげぶんしん」。




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   ↑:「無題」。



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by sakaidoori | 2013-09-11 10:39 | エッセ | Comments(0)
2013年 05月 23日

2065)「[現代書と彫刻のコラボレーション] -環境空間アートの提案-」 エッセ 5月21日(火)~5月26日(日)

   
   
現代書と彫刻のコラボレーション] 

   -環境空間アートの提案-
     


 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2013年5月21日(火)~5月26日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~18:00
     (最終日は、~15:00まで)

 【参加作家】
 書  :太田秋原 太田俊勝 小林靖幸 樋口雅山房 吉田敏子 渡邊佐和子 
 彫刻:小林一夫 西村潤
  

※ 長野巡回展 2013年6月1日(土)~6月9日(日)

ーーーーーーーーーーーーーーーー(5.22)


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 書は墨人会の有志です。書家と彫刻家の関係はわかりません。仲間達でしょう。

 書の空間作りに立体作品が邪魔せずに静かに参入。書そのものは伝統と文化の塊だ。書家それぞれがなんとか現代性を出そうとしていて、それぞれの書風同士が、「何かを出せたか?」をさらりと確認しているみたい。
 そういう書家の「古典-現代」のささやかな格闘に対して、現代立体作品がフワーッと相槌をうって応援している、そんな見方を僕はした。




 道外からお二人の書家が参加している。
 その方達から載せていきます。
 8名の参加です。中途で終わるでしょう。

 (以下、敬称は省略させて頂きます。)


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     ↑:渡邊佐和子
     ↑:左側、上から 「光」・(全て)70×45㎝、「土」、「水」。
     ↑:中央、「行」・90×70㎝。左側、「色」


 左側の作品は分かりやすいし、見ていて楽しい。
 対して、右側の2作は意味不明な感じで戸惑ってしまう。
 もし、右側の2作だけの出品だったら見過ごすだろう。左側の明快な主張のある作品があるから、書家の実力を感じて、改めて右側の2作をしげしげて見定めることになる。


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 前衛的な試みと解したくなる。
 肉をそぎ落として骨格だけにしようとしているみたい。何のためのそぎ落としか?骨格だけによる力強さとか、美学とか、そういう枠内に収めたくないみたい。北宋・徽宗(きそう)皇帝の針金文字が有名だが、彼の字には強さと品がある。何より男の色気が漂っている。渡邊佐和子・書、気分は針金的だが、皇帝の字とは心意気が全く違う。
 幸い書家がおられた。「新たな試みというより、もともと自分自身にあったもの・・・」、そんな風な言葉をもらった。
 「書そのもの」の探求から生まれた姿ではないようだ。「書と自己自身」の関係から生まれようとしているのだろう。だとすれば、絵画的美術を通り越して、現代表現そのものだ。美とか分かりやすさから離れがちになるのも当然かもしれない。



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     ↑:小林靖幸(大阪府在住)。 
     ↑:左から、「清」・90×70㎝。「鬱」・140×90㎝。「願」・70×90㎝。



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 一文字には違いないが、表現に幅がある。それは前回の渡邊女史にも言えることだが、見ていて感心する。 「書」にとって引き出しの多さは絶対だと思っている。「字」という約束事に縛られた芸術だから、すぐに型にはまりやすい。ある意味、芸術一般は「型」と言い切っても構わないかもしれない。古典は伝統という型、現代は表現者自身という型だ。その表現者自身に型があるのは仕方がないが、可能性を制約させる型であっては困る。

 書かれた字について。
 渡邊女史の字は中国八卦のような字の印象だ。「空」というか「直感」的な感性による自由表現か。
 対して、小林幸康は僧侶的な字を思った。個人の安心立命というか、慾多き心の有り様を書で解放しているみたい。濁を背景にして、書で自由を確保しているのかもしれない。気楽度が高まれば、より文人肌になっていくのかも。



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     ↑:太田俊勝(札幌市在住)。
     ↑:左から、「己」・70×50㎝。「燃」・50×70㎝。「道」・50×70㎝。


 「己の燃える道」、それが太田俊勝・道かもしれない。確かに願望かもしれない、見果てぬ夢かもしれない、燃えるような「書」を目指していたのかもしれない。

 北海道墨人展で親しんでいる書家だ。今展の3作、普段の団体展とは違って、素直に綺麗に格好良く自分の気分を出していると思う。確かにこういう字は能書家のものであり、競争展で見ても上手さが目立つだけで面白味に欠けるかもしれない。
 だが、時にはこういう字を世間に見せるのも良いことだ。「太田俊勝は上手いぞ!どうだ、上手いだろう」といつになく威張っている。心地良い威張りだ。



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     ↑:吉田敏子(札幌在住)。
     ↑:左から、「道」・70×68㎝。「心」・68×70㎝。「微」・68×70㎝。


 薄墨で筆先露わにシャープな線と綺麗な空間を表現している。才長けた調子だ。

 なぜ薄墨かを尋ねた。筆先の乱れた線を強調したかったからか?ご本人は、「なかなか濃い色がでないのです」とのことだ。すかさず他の書家が、「筆は柔らかいのですか?」「いえ、硬いです」
 僕は薄くても濃くても構わないのだが、できれば吉田敏子には濃さ加減を自由に使いこなして欲しい。
 基本的には彼女は字を書く人だろう。結果的に、字と余白のバランスが絵画的で心地良い空間を生んでいると思っている。おそらく、書家の本意とは違った魅力があると思っている。その書家の本意と絵画的魅力を繋ぐものが、線の流れと色の濃さなのだろう。
 精神の自由が流れになり、意欲が濃さに現れる。そんなことを今作で思った。




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     ↑:樋口雅山房(札幌在住)。
     ↑:左から、「楽」(古文)・100×54㎝。「舞(古文)」・112×90㎝。「遊(古文)」・90×58㎝。


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 いつもながらサービス精神旺盛な樋口雅山房だ。
 板に書いている。細胞の塊のような筆跡が面白い。線ではなく、筋の表現になっている。伺えば、「たまたまです」との返事だ。板の下地処理が、こういう結果を生んだのだろう。絵の好きな書家でもある。思わぬ絵画誕生に一人舞い上がって楽しんだことだろう。遊び心のなせる技だ。



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     ↑:太田秋源(旭川在住。)
     ↑:左から、「樹」・142×180㎝。「この命ひとつ」・140×40㎝。「花」・24×67㎝。


 植物に託す生命力を書の内発力で表現したものだ。ストレートな生命賛歌だ。
 1941年生まれと図録にある。71歳か?真一文字で元気な字だ。これからがオレの字だ、と言わんばかりだ。精神の若さ、それを保つ人なのだろう。



 立体作品、愛おしい作品が会場でたむろしています。学生諸氏には間違いなく勉強になる作品です。見に行って欲しい。書にこだわりすぎて、あまり掲載できません。


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 手の中の宝物のようだ。書の片手間に楽しむようなものではない。会場のある建物は、現在外壁工事中だ。外からこれらの作品は見にくい。本当に残念なことだ。



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     ↑:西村潤(東京都在住)、「(シリーズ)休息する鳥」。


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     ↑:西村潤(東京都在住)、「(シリーズ)休息する鳥」。



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     ↑:小林一夫(長野県小諸市在住)、「海の気」・1700×4個 木 木炭 炭。


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 小諸市の人だ。藤村の「千曲川、小諸なる古城のほとり・・・」を思い出す。一度だけだが、通りすがったことがある。高台から憧れの小諸川を見た。近くの美術館にも立ち寄った(小山敬三美術館)。もう一度行きたいものだ。

 立体作品群、目立たず騒がず、キラリと小さく・・・。






      ~~~~~~~~~~~~~


 書を語るのはシンドイ。こちらに書の実践と素養がないというのが大きな理由だ。ただ今、中国史を勉強しているので、素養の無さを中国史でカバーしようと思っている。
 「書の語らい」をあまり聞かない。語るルールが無いようなものだ。これは書家や文化人の怠慢だと思っている。
 そして、書家は人生のベテラン達が大半だ。そういう方達を感想ではあっても一刀両断的な言い切りで進めていくのは難しい。失礼なことこの上ない。
 が、「字」は日常茶飯事としてそこにある。「書」も人生の流れで親しんでいる。本質に迫れなくても、何かは書けるだろう。本質に迫る必要はない。「語り」こそ人生だ。「栄通記」、楽しんだ展覧会は記したい、語りたいと思っている。

by sakaidoori | 2013-05-23 11:25 | エッセ | Comments(0)
2013年 03月 22日

1984)「CUBE (小樽潮陵高校写真部卒業生・写真展)」 エッセ 3月19日(火)~3月24日(日)

  
   

CUBE 

   小樽潮陵高校写真部卒業生
   photaru C-love による写真展
    


 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2013年3月19日(火)~3月24日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~19:00
     (日曜日は、~17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーーーーー(3.21)

 写真展が続きます。二十歳前後の若い人達です。

 (以下、敬称は省略させて頂きます。)



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 きちっと被写体に向き合っていて、初々しい蕾展のようだ。花開きたいが、廻りの様子がわからないし、自分自身もどうやって振る舞うのかが見えてこない、そんな遠慮がちな小ささコンパクトさも多分にあった。
 それに、この会場は広い。天井も高く、壁や空間も真新しい白味が支配しているので、普段着の展示をしていると作品が小さく見える。今展はそれなりに大きめサイズではあるが、まだまだ小さい。それに出品数も少ない。多人数の平等性にも配慮しているから、他者の領域には精神的にも犯そうとはしない。その辺りが不満だが、それは初体験だから仕方がない。それはそれとして、初々しさを大いに楽しんできた。

 多人数の出品です。疲れたところで止めます。


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     ↑:Kuma


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 一瞬、何が何だかわからない。キャプションのシルエットで「蒸気機関車」だと知れる。
 機関車を有り体の大きさではなく、ハンパでない接近度が良い。マイカメラを機関車のように扱う人だ。随分と機関車を見て触って乗って迫って聞いて感じて、自分のものにしている。観察者の目だけではない。自分自身の投影、願望とも思える気合いの入れようだ。
 3枚とは惜しい!!大きめサイズで横一列にガッツ並べて、「どうだ、黒光りする機関車だ。オレが分かるか!」の心意気を!あるいは、大きな大きなたった一枚で、堂々としたKuma機関車を見せて欲しかった。



   ※※※


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     ↑:ARIMI


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   「今回はごめんなさい。来年期待して下さい!!!!!!


 キャプションの自己弁明書だ。本当にそうだ。

 人のシルエットが好きとのことだ。今回は小振りの人物シルエットだ。いろんなパターンを持っているのだろう。是非是非、こちらの脳みそが黒く染まるぐらいにエネルギーを発散させて欲しい。


 ※※※


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     ↑:ちーやん、「ポートレート大好き」。


 同輩の女性をやさしく素直に撮る人だ。普段着のちょっと外向きの意識、ホッペもフックラ、目も輝いている。楚々とした女性達、もっと見たかった。


   ※※※


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     ↑:アヅマ鶫、「17歳40ヶ月 少女の少女による少女のための少女 シンゾウとは此れ如何に」。


 表現者は「記号論としての少女」を述べている。僕は普通に「思春期の少女」表現として見た。二十歳頃を青春時代とは呼べるが、思春期と呼べれるのか?そういう意味では、表現者にとっては「まっただ中の思春期」ではないだろう。過去完了形ではないが、つい最近まで在った「自分の思春期」を見直し、問いつめる作業の一貫かも知れない。

 写真と同時に言葉もある。写真だけでは溢れる思いを満たせないのだろう。「記号論」というベールで今は進んでいる。一枚一枚ベールは剥がされ、少女は二十歳に、青春に、大人に女になる。撮影者はどこまで「女」を追究するのだろう?視点は他に向くのか?それは女の深化か?単なる移動か、変更か?


   ※※※


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     ↑:弥沙、(自己紹介文無し。)


 一人だけ風景での出品だ。それも。空と雲と電信柱と巨大石?という地味さだ。ダーク調だから地味さは3倍だ。
 心象といえばそうだろう。特に左側のモヤモヤ感はドロドロやゴッタ煮感も出ている。でも、強く表現しているのが良い。

 撮影者は高く伸びるものが好きという。電信柱、高層建築、塔・・・。高く伸びた先には空がある。だから空を撮るのだろう。空には雲がある。あの雲のようになりたいと思っているのだろう。その雲に自分の気持ちを託しているのだろう。モヤモヤしたダークな面持ちを。
 暗い気分の時に、暗いものを「強く」出す。実に良いことだ。そのために表現というものがある。彼女はそれを実践している。もっともっと暗い気持ちを大きくボンボンと出せばいい。より落ち込むか、朝日が射すか?それはわからない。ただ、自分に忠実に、一所懸命に暗さを表現すればいいのだ。


  ※※※


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     ↑:全員の集合写真。




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     ↑:Ayu




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          ↑:しおり




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     ↑:kamda


 清楚な作品。真ん中にスポットを当てて、廻りが光でやさしく包んでいる。もう、しっかりした立脚点に立っている。この表現から少しずつ少しずつ深まって拡がって大きくなればと思った。





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     ↑:嶋田


f0126829_1228144.jpg 「ふわっと見て下さい」。

 確かにこういう見せ方をすると、ついついお座なりに見がちになる。日常を撮影者は日常的に撮っている。しかし、家族の屋内の日常を、そのまま世間に晒すことはできない。「家族の日常」は他人に見せるところではないから。そこんところをフワッと嶋田感覚で「屋内」に迫っている。左側の写真群、あ~、涙の泣き笑いが出てきそうだ。コソッとチクリと人の秘部を楽しんでいる。他人と共有したがっている。侮りがたし「嶋田××」は。












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     ↑:あっちゃん、「笑舞」。


 屋内の祭練習風景だ。
 あっちゃんと話した。屋外の祭を撮りたいという。祭本番は皆なが撮っているから、個性的作品は大変だ。だが、撮りたいのが一番だ。
 まだまだ撮影者が祭気分からは遠い感じ。カメラや目や手や足や息が祭ってない感じだ。綺麗に撮ろう、上手に撮ろう、そんな上品さがある。祭になれば、演技者はオッパイ振り回して、露出覚悟の熱演だ。お尻だって右に左に飛び回る。そのスピードに負けないだけの意気込みを持たねば。今回の練習風景は、あっちゃんにとっても練習だ。練習が肝心だ。本番になったら考えずにバチバチシャッターだ。忙しいぞ~。次回の本番を楽しみにしています。




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     ↑:Marina ABE、「せかいのみみ」。




 高校時代に、それぞれの撮影者は「写真」を随分と楽しみ身近なものとしていた感じだ。「世間に見せる、発表する」という経験不足を感じるが、素直なカメラ生活が新鮮だった。自覚と継続、できれば高い志を期待したい。



 なぜだか、全員の作品を載せてしまった。駄弁、お許しを。

by sakaidoori | 2013-03-22 13:36 | エッセ | Comments(5)
2012年 12月 07日

1906)「澤田千香子の 『I LOVE OTARU ポスター展』」 エッセ 12月4日(火)~12月9日(日)

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澤田千香子

   I LOVE OTARU ポスター展
 


◎ 札幌会場 

 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2012年12月4日(火)~12月9日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~19:00
     (日曜日は、~17:00まで)




◎ 小樽会場(終了)  

 会場:市立小樽美術館内 市民ギャラリー 
      小樽市色内1丁目9番5号
       (小樽駅を5分ほど運河方面に。
       向かいが旧日銀。)  
      電話(0134)34-0035

 会期:2012年11月21日(水)~11月25日(日)
 休み: 
 時間:10:00~18:00 
     (最終日は、~17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーー(12.6)

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 町並みや建物の作品を載せます。


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 (以下、敬称は省略させて頂きます。)


 つい先日まで小樽の市民ギャラリーで個展を開いていた。その時と同じ作品の展示だ。会場の広さの問題もあり作品点数は減っていたが、見せ方などは同じ方法だ。僕は小樽の個展も見たので、個人的には大胆な展示を見たかった。例えば、壁一面をランダムに貼りめくるとか、二段組みにするとか、テーマ毎に組にするとか、要するに良い機会だからもっと遊び心もあってはいいのではと思った。

 そうはならなかった。あくまでも、日めくり気分で、そして、あまり連続的に追いかけるのではなく、軽く「次は何かな?」という気分で一枚一枚のポスターを見て欲しいのだ。

 「見て欲しい」、やはりここがポイントなのだろう。元気ムンムンの会場全体気分、を作家は欲していない。ポスターというちょっと人目を惹いては忘れられもする写真、でも何かが心に残って欲しい。「何か」、被写体に対する愛情なのでしょう。実に当たり前なことなのだが、小樽という町並みや人々へのささやかな愛情ポスターだ。
 2回の「澤田千香子・小樽ポスター展」。ささやかな小樽への愛が会場をアット・ホーム的に小さくしていたともいえる。ささやかな愛ではあるが、その連続した姿は、どこかで意図的に作品中身のリズムを変えないと内向きの強い愛になってしまう。アット・ホームを展覧会に求めていない人は、「はい、わかりました。サヨウナラ」という返事になるかもしれない。ささやかな愛に響いた人は、「懐かしき心を思い出しましたよ。いろいろと感じ入りました」と言ってくれるかもしれない。


 僕はといえば、どうなのか。DM作品にあるような、お茶目気分に小樽を自由に楽しむ姿が見たかった。どうしたわけか、DM写真以外には茶目っ気さはない。つまり、この姿勢は小さな愛情の一コマでしかなかったのだろう。
 「小さなささやかな愛」であっても、概ねその流れの写真が多いから、結果的には今展は「強い愛情写真展」だ。「澤田千香子流、小樽愛情ポスター展」だ。一枚一枚のポスターは程良い抑制ではあるが、その連続は一本調子のラブ・レターになってしまった。
 ラブ・レターで鑑賞者と交流するのは難しい。その為に彼女はキャラクターなどを使った遊びで愛をにじませて表現していた。「愛」を隠すのではないが、「愛」というあんこを覆うあんパン、甘みで覆われたメロンパン、コッペパンだっていい、パンがケーキに変身だ、そんな食べた後に愛を感じるような澤田写真館もいいものだ。



 
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     ↑:(会場のメイン・スポットの4作品。今展のメイン作品とも言える。)



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 会場からの札幌風景です。


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by sakaidoori | 2012-12-07 15:37 | エッセ | Comments(0)
2012年 03月 03日

1641)「高橋あおば 『forest展』」 エッセ 終了・2月21日(火)~2月26日(日)

○ 高橋あおば  

          forest
  


 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2012年2月21日(火)~2月26日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー(2.24)

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 (以下、敬称は省略させて頂きます。)

 高橋あおばは今春の北海道教育大学・大学院修了生。
 初個展、ということで、在学中の作品の網羅展だ。網羅展につきもののまとまりの無さも感じはするが、色合いは一定していて、見る分には程良い安定感を保っている。線描もたゆたゆしさで一貫している。「下手」と言ってしまえばそれまでだが、学生らしさや若さでもあり、自分らしさが出ていて好ましい。
 傾向としては緑系主体の日本画の雰囲気、肉筆線に対する愛着、木や植物に託した自画像、その自己は深刻に悩むというのではなく、「私って何処に行くのかな?まっ、いいか」的なフラフラ感・・・そういう現在として見た。


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     ↑:左から、「雨の日の空想」・2009年 キャンバス 油彩 クレヨン。「仮想空間」・2009年 ジェッソ アクリル ワニステンペラ 油彩 クレパス クレヨン。

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 重複の写真掲載で恐縮。お気に入りの一枚だからです。
 渋い色合いに、ゴチャゴチャと描きまくる。藪の中を、空間の奥を、花弁の極みを見る覇気が良い。一心不乱に満遍なく「花」を描けばどうなるか?強い生命力と溌剌さをうむ。ところがこの絵は、赤茶けた色で構成していて渋い。発散する心を制御している。他の作品にはこれほどの熱情はない。燃える思いを表現する学生ではないようだ。時折見せる止むに止まれぬ激しさかもしれない。


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 線は拙い。特に格子状の模様は絵というよりも「線」そのものだ。ところが、花びらの輪郭線は、たゆたゆうしくて絵になっている。
 巧みな線になれば気品は漂うだろう。この作品に見られる日本画の傾向は上手さを求めているかもしれない。だが、巧みな線ではこの人らしさがない。上手すぎてはダメだし、単純に下手では話にならない。絵画制作の反復と自己確認が方向を決めるのだろう。

 線描は人目を惹きやすいから、その欠点を何だかんだと言われていだろう今風の情感として見るべきだろう。
 一方、空間処理には相当に気合いが入っている。服地の濃淡・陰影に価値を見いだしているのだろう。密かな迫力とでもいおうか、高橋あおばの入魂の世界だ。拙くも自由な線描との対比で絵をささえている。
 目立つ激しさよりも、目立たない深さを追求したいのかもしれない。


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     ↑:「※winter forest※」・2012年 石膏 クレヨン。


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 小品ですがとても好きな作品だ。
 紬色は相変わらず渋い。それよりも、木々の輪郭線が良い。心許なく立ちすくみ、何かを求めているようで、それでいて強く恋すがるでもなく、やっぱりそこに立つ。絵は小さいのに、気分が晴れやかに拡がっていく。小品という、傍によって見入る行動と感覚が、自分事のような楽しき誤解をうんでいる。何処か懐かしい牧歌的な叙情と、明日に羽ばたこうとする素直な感性を思う。


 いろんな事を試みている。試みではあっても、ある種の完結さがあり、見る分には安定感があり気分良く接する事ができる。極端な失敗作が無いという意味では、もっともっと冒険の余地があるともいえる。
 既に言葉が多くなりました。以下、写真だけを載せます。楽しんで下さい。



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          ↑:「※image3※」2011年 石膏 箔 クレヨン 顔料。


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     ↑:「その先へ」・2011年 石膏 クレヨン。


f0126829_16272320.jpg ↑:「林」・2012年 石膏 クレヨン。


 男は何かを求めて上に伸びようとするものだが、この絵は違う。心や体の揺れを遊んでいるようだ。

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          ↑:「※image2※」・2010年 画用紙 クレヨン 顔料 油彩。







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by sakaidoori | 2012-03-03 00:01 | エッセ | Comments(0)
2011年 01月 23日

1438)②「白鳥信之・展」・エッセ  1月11日(火)~1月23日(日)

○ 白鳥信之・展 

 会場:ギャラリー・エッセ
     北区北9条西3丁目9-1 
       ル・ノール北9条ビル1階
     (南北に走る片側2車線道路の東側。)
     電話(011)708-0606

 会期:2011年1月11日(火)~1月23日(日)
 休み:月曜日
 時間:10:00~19:00
     (最終日は、~17:00まで)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー(1.11)

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          ↑:「忘れ難き人  野村利春さん。長崎県北松浦郡福島町出身」。


 (以下、敬称は省略させて頂きます。)

 私はこの作品が一番好きだった。具象展なるが故に魅せられた作品と言っていいだろう。

 この作品は今展では趣を異にしている。
 農作業夫や年配者の人物を見せる中で、比較的若い現場作業夫だ。
 何より異質なのは、他の全作品がなにがしかの誇らしさに包まれているのに、唯一木訥で、むしろいじけ気味の人物であることだ。

 白鳥信之は存在の本質を追究する画家だ。いや、「本質」は画家にあっては瞬時に了解し、その存在の厳かさや尊厳を追い求めている画家と言った方がいい。
 「尊厳」は静かな祭壇になり、見果てぬ夢(ロマン)への讃歌にもなる。
 男が夢を描く時には女が一番手っ取り早い。そして甘さが強くなった時の白鳥・女性画はロマン過多になり、追求する所の絵画美の本質が薄くなる。男が女を描く時の魅力と危険性を、素直に絵にする時がある。

 人間くさい存在を描く時には年配者が良い。その皺ほど、「人間」を感じる時はない。リアリズムの興るゆえんである。しかし、氏は細密に描いてはいるが、線描みなぎる細密描写を好まない。氏の持つ体質的な詩情がそれを欲しないのだろう。代わりに日本美の一つである伶俐な空気描写、間という存在描写で対象に迫る。

 だが、どうしても人を描けばロマンやヒューマニズムで覆われがちになる。愛や倫理観がダイレクトに見る側に伝わる。それは画家自身の発する信念や強さが絵を成り立たせているからだろう。だから意外にも、絵と見る者の関係は絵からの一方通行なのだ。
 僕が好きと言った若き労務者作品は余りに普通の姿だ。モデルは凡庸な優しき人のようだ。「弱き人」を画家は描いている。確かにそれも白鳥・ロマンの裏返しかもしれない。だが、裏返しの一方通行はここにはない。画家はかなりの自己制御をして、人物を「普通の人」にすることに徹している。愛を抑え、静かに見せている。
 モデルは在日朝鮮人のように見える。日本社会で底辺に生きた人かもしれない。ただ働くことだけの生涯ではなかったのか。愚痴ることもなく、そして人知れず他界されたことだろう。賢治のデクノボウを見る思いだ。
 社会的リアリズムを廃し、ロマン主義を拒否し、居合い抜き的な勝負絵とは無縁だ。白鳥・詩情で存在のリアリズムを追求している。


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 今展は2部構成になっている。

 風景(空間)に収まる人物絵画群。大作、力作ばかりだ。背景の描き方で画境の流れがみれる。写実重点、空間処理としての自然景、抽象(イメージ)描写、と背景処理はいろいろある。
 林檎の静物画を狂言回しのようにして、小さな肖像画群。自然体を良しとする表情と風采だ。遺影と見る人も多いことだろう。

 こういう展示方法は、普通は大作重視だ。小品のポートレートは大事な余韻として機能する。
 だが、今展の小品群は重い。広い窓際に配置されてもっとも目立つ。光も燦々と受けて輝いている。要するに、意図的に一等席を小品群で埋めている。大作、小作のバランスが普通とは逆転している。おかげで大作の魅力に目が行き届かない。つまり、ベターな展示だがベストではない。
 今秋、東京で二部屋を借りた個展をされるとのことだ。その準備をも兼ねた個展なのだろう。大作、小作の響き合いを確認しているのだ。だから積極的にDMを市内に配布しなかったのだろう。

 他に余韻として女性画がある。直立した女性画は1986年とサインがある。画家になり始めの頃の絵という。その凄みと力強さは今でも傑作と言っていいだろう。

 絵から赤裸々な力強さや凄みを消去すること、そういう変遷の帰結が「忘れがたき人」と理解した。


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  1945年 喜茂別町生まれ
  1986年 札幌大同ギャラリーで個展
       
 この個展が実質的な初個展だろう。というか、かなり後れて油彩画を独学された方だ。ここから画業が始まる。

by sakaidoori | 2011-01-23 20:20 | エッセ | Comments(0)