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栄通記

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2013年 02月 28日

1946)「札幌大谷大学写真部 写真展」 アイボリー  2月19日(木)~2月24日(日)

   

札幌大谷大学写真部
        写真展
        
    
    
 会場:ほくせんギャラリー ivory(アイボリー)
      中央区南2条西2丁目 
      NC・HOKUSENブロックビル4階
      (北西角地、北&西に入り口あり)
     電話(011)251-5130 

 会期:2013年2月19日(木)~2月24日(日)  
 休み:
 時間:11:00~19:00   

ーーーーーーーーーーーーーーーーー(2.23)


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 小振りでおとなしいのが難点。美術系大学だけあって、「これ、写真?」という作品があるのが特徴だ。その作品を中心に進めていきます。

 (以下、敬称は省略させて頂きます。)



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     ↑:伊藤沙弥香、「ひみつ」


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     ↑:(上の大きな作品の部分図。)



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 絵画と間違ってしまった。
 撮った写真をあれこれといいじくって仕上げている。オリジナルは写真で、デジタル処理されたものだ。大きく一枚のプリントに印刷したいのだが、予算の都合で貼り合わせになった。コラージュという意識は薄いので、一枚仕立てのように正確に引っ付けている。もっとも、コラージュの元もとの考え方は、引っ付けているのを気付かせないことに意味があったから、コラージュ作品と言っても間違いはない。
 
 人間の背後にある、ぽっかりとした抜け殻のような空間、そこを問うている。ボケと貼り合わせの接点に凝縮している。それは結局人間を見つめているのだが、伊藤沙弥香は何を見つめているのだろう?いじらしい思春期か?悩ましい青春か?人への慈しみか?とりあえずは、「ひみつ」だ。

 焦点は定まっているのだが、全ては揺れている、揺らいでいる。存在の輪郭は把握できるのだが、目口鼻という表情はなく、その人を読むことはできない。表情はないが、仕草という誤解をまく影が悩ましい。より悩ましいのが空間だ。現代絵画は、結局は空間に対する感じ方であり、その表現に尽きるかもしれない。

 伊藤沙弥香は、この「ひみつ」を追究するのか?それとも、このデジタル処理の悩ましさに憑かれて、あれこれといじくって、意外な世界の再来を楽しむのか?続編を期待しよう。コラージュ手法で、もっともっと大きな作品での再会だ。


 ※※


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     ↑:(匿名のT子?)、「Prototype」。左側、「halftone dot pattern」。右側。「particle pattern」。


 こちらの作品はデジタル処理そのもと思った。ところが、被写体に接近して撮っただけだ。右側は写真を接写して撮ったもので、左側は・・・すいません、何に接写して撮ったものかを聞き忘れましたが、とにかく無処理のデジタル作品です。

 もっとも、処理されたかどうかは作品理解には大事なことだが、作品鑑賞の瞬間性にとっては二義的な問題だ。今回の展示は、撮影者が写真の可能性を確認した試作展のようなものだ。見る方も、色やパターンの見本帳を見ている感じで、「さー、これを使って何をしたいか見せてくれ」に尽きる。

 色乱舞の華やかな空間作りに励むのか、微細なるものへの飽くなき眼差しへと進むのか、全ては可能性の中だ。


    ※※


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          ↑:山本美和、「辿る」。


 そこかしこに見える人物、作家の自画像のようにして振る舞っている。過ぎ越し時を思い出しながら、時系列に心模様を辿っているのか?心に移りゆくよしなしごとを、思い向くままに貼り合わせているのか? 
 真ん中にドーンと自分を置いて、結局は「私はここにいる」と宣言しているみたいだ。
 とても面白い。残念なのは自分の心象気分のみを前面に出して、心象が育った背景とか風景とかの語り合いがないことだ。だから、全体が「気分」のみに流れてしまった。「それでも私がいる」という主張も作品全体から発散するものにならなくて、安易に自己中央提示で解決しようとしている。
 確かにそういう気分偏向で安易な自己主張もあるが、「ここを私は見ている」という撮影者の視点もしっかりしていて、「若者」らしい。
 ここにきめ細やかさと大きさが加われば世界が拡がる。ひろがる以前の自己確認の世界だろう。


   ※※


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     ↑:中村昌寛、「早秋の旅」。


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     ↑:横田苑香、「つめたいところ」。


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     ↑:伊藤亜似加、「動物園」。   




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     ↑:柴田文恵

by sakaidoori | 2013-02-28 13:57 | 北専・アイボリー


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