栄通記

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2009年 12月 16日

1128) ①開拓記念館 「クラーク博士の教え子 内田瀞(きよし)」 11月28日(土)~2月28日(火)

○ 第154回 テーマ展

   クラーク博士の教え子
     内田瀞(きよし)

     

 会場:北海道開拓記念館
     札幌市厚別区厚別町小野幌53-2
     電話(011)898-0456
     ファクス(011)898-2657

 会期:2009年11月28日(土)~2月28日(火)
 休み:月曜日(定休日) 
  (年末年始休み:12月28日~1月3日) 
 時間:9:30~16:30
 料金:無料

 展示担当:三浦康之 山田伸一 (共に、当館学芸員)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー(12・5)

 (以下の写真は、当館の許可に基づいての掲載です。)

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 「内田瀞(きよし)」をご存じない方が大半でしょう。氏の年譜と略歴を初めに書きます。


 ・1858(安政5)年8月      土佐藩士・内田茂助の次男として高地城下に生まれる
 ・1874(明治7)年≪17歳≫  上京して東京英語学校に入学
 ・1876(明治9)年≪19歳≫  第1期生として札幌農学校に入学
 ・1880(明治13年)≪23歳≫ 上記卒業後、開拓使に勤務
               開拓使廃止後は農商務省北海道事業管理局勤務
 ・1886(明治19)年≪29歳≫ 北海道庁に勤務
               以後、道庁の殖民地選定・区画測設事業の中心を担う。

 ・1894(明治27)年≪37歳≫ 「非職」(休職)を命ぜられる。
 ・1895(明治28)年≪38歳≫ 上川郡鷹栖村(現旭川市&鷹栖町)、の松平農場の「農場管理」職に就く。
                      (現場の最高責任者。)
 ・1896(明治29)年≪39歳≫ 復職する(道庁内務部殖民課)。
 ・1897(明治30)年≪40歳≫ 3年前に次、いきなり「非職」を命ぜられる。
                      (実務から外される。ほどなく道庁を依願退職する。)

 ・1898(明治31)年≪41歳≫ 再び先の華族農場・松平農場の「農場管理」に就く。
 ・1905(明治38)≪48歳≫ 現旭川の近文土功組合長に就任。
                      (水田の為の土地事業組合)
 ・1918(大正7)年≪61歳≫ 松平農場の「農場管理」職を辞任。以後、「顧問」。
 ・1933(昭和8)年≪76歳≫ 静岡県伊東で逝去。享年76歳。


 札幌農学校の第1期生ということで、クラーク博士の教え子である。
 その学歴ゆえに人生の初仕事は開拓使勤務となる。以後、道庁に勤務して、今で言う「土地区画事業」の推進や、開拓農民の入植地の決定という国家意志の実務の中心者として名を残す。ここまでは前半生と言っていい。
 理由ははっきりしないが、「非職」という待遇により道庁を依願退職する(実質はクビ。道庁の権力闘争のあおりか?内田氏の個性故か?)。
 彼の上級官吏という職歴が注目され、530万坪の土地の貸下げを受けた松平農場の現場の最高責任者として迎えられる。無事、模範華族農場と言われる成功をおさめ、旭川地方の名士になられた。
 氏の遺族により氏の遺品が当館に寄贈されての、資料公表という展覧会だ。

 遺品の中心は写真と日記です。それを、資料そのものに視覚的に語らせるという趣旨で写真展にしています。
 以下、構成を紹介する形で写真掲載していきます。


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     (↑:寄贈された写真集。)

 この写真が今展の主役です。家族の記念写真が大半だそうですが、道庁時代・農場運営時代の風景写真には「北海道」が新鮮に蘇ります。まさに写真の記録性は日が経つにつれ、いろいろと可能性が拡がる事例です。しかも、内田氏は非常にこまめだから、撮影日時を残している。しかも、日記も書いているから、撮影日の日記を紐解けば、写真の意味がより深まるのです。日記は「松平農場時代」以後しか残っていませんが、「写真と日記」で幾重にも時代が読み取れるのです。歴史研究家ならずとも、小説家の種本には充分になります。


◎ 第1章・・・札幌農学校時代。(クラーク博士の教えを受けて。)

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     ↑:「東京英語学校の同期生と」・1876年(19歳)頃。
     左から、内田瀞(本人)、柳本道義、大島正健。共に脳学校に学び卒業する。


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     ↑:「(札幌農学校時代)調査旅行姿の『土佐ボーイ』たち」・1878年7月30日撮影。
     左から、内田瀞・本人、黒岩四方之助、田内捨六。
     (野外実習スタイルのままの記念撮影?クラークは土佐出身の彼等を「トサ ボーイ」と呼んでいた。
 

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     ↑:「農学校卒業生らが設立した札幌基督教会の会員たち」・1883夏の撮影。
     なかなかの人間模様です。内田氏は上段右側の目元の黒い角ばった顔の青年。妻・幸(こう)もいます。1882(明治5)年に結婚。

 農学校時代の写真や、その卒業生達が設立した札幌基督教会関係の写真たちの展示。
 イントロのようなコーナーで、気分は一気に明治10年代へ。

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◎ 第2章・・・開拓使から北海道庁在職時代。(開拓の基礎を担う。)

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     ↑:「殖民地選定員・門田啓太郎の版」・1890年代の撮影。

 内田氏の仕事は具体的殖民地の決定、その地の測量、そして区画割をして土地払い下げの下準備をすることです。彼の決定により、この地は開拓が進められていったわけです。
 上の写真はその関係者の写真です。アイヌがいます。彼らは土地を我々日本人によって追われていくわけですが、あてがわれた農地の開墾者もいたでしょうが、かなりのアイヌが人夫として、陸軍の測量、運搬・伐材などの野外の仕事に従事したといいます。

 (・ 今展は、北海道庁上級官吏の足跡を追い、写真による時代の追体験に主眼があり、その歴史的批判・評価をしていません。
 このコーナー自体は寄贈資料の少なさもあり、中心コーナーではありません。開拓の選定の実務ということを考えた時、今後の掘り下げた研究が期待されるところです。)

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     ↑:「十勝国浦幌・河畔の野営にて休憩」、1896年夏撮影。

 やはり野営地は水のある所ですね。白いテントが目を引く。僕の写真ではわかりにくいですが、釣り人や馬も見える。物語が始まりそう。


◎ 第三章・・・松平農場の「農場管理者」とその周辺。 (農業の実務と上川地方の名士へと)

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 ここからがメインです。農場の貴重な「農場風景」、仕事関係者や知人・友人・家族という写真ならではの人間の表情を堪能できます。紳士的と云うか、表情を顕わにしない内田瀞・氏の「顔」もいく通りもみれます。


 長くなったので、「②に続く」ということで。

by sakaidoori | 2009-12-16 15:42 | ☆北海道開拓記念館 | Comments(1)
Commented by 青樹洋文 at 2017-11-12 01:08 x
はじめまして。
Boys, be ambitious like this old man!(少年よ大志を抱け この老人のごとく)とクラークに言われた若者たちが、その後どんな人生を歩んだんかを調べていて、内田瀞にたどり着きました。このような貴重な情報を残してくださっていたことに感謝申し上げます。ありがとうございます!


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